「飛ぶ鳥落とす勢い」とはこのことを言うのだろう。今夏のテニス全米オープンで、日本人としてグランドスラム初の決勝進出を果たした錦織圭は、約2週間後のマレーシア・オープンでツアー5勝目を挙げた。さらに休む間もなく出場した楽天ジャパン・オープンでも、2年ぶり2度目の優勝を果たした。3大会連続でファイナリストとなり、世界ランキングは全米前の11位から、6位(13日現在)にまで浮上。トップ8のみに出場が許される11月のツアー・ファイナル出場も現実味を帯びてきた。その錦織のプレーをアマチュア時代から陰で支えてきたひとりが、ストリンガー・細谷理だ。
 想定内だった錦織の決勝進出

 今年の全米オープン、例年通り大会のオフィシャルストリンガーを務めた細谷のスケジュールが大きく変わったのは、9月3日(現地時間)のことだった。その日、男子シングルスの準々決勝が行なわれていた。錦織は4回戦のミロシュ・ラオニッチ(カナダ)戦に続いて、4時間を超える死闘を繰り広げていた。相手は、今年1月の全豪オープン覇者、スタニスラス・ワウリンカ(スイス)だ。実はこの日、細谷は最終日の予定で、翌日には機上の人となるはずだった。

 だがこの日、錦織がワウリンカをフルセットの末に破り、日本人にとって実に96年ぶりとなるベスト4進出を果たしたことで、細谷は帰国を延ばしたのである。
「僕のほかにもオフィシャルストリンガーはいましたから、強制的に残らなければいけないということではなかったんです。でも、周りからも『残った方がいいんじゃないか?』という雰囲気がありましたし、自分としても4回戦を突破した時、すでに『もしかしたら、準々決勝以降も残ることを考えなくてはいけないな』ということは頭にありました。もう、最後までやるしかないな、と思いましたね(笑)」
 何より錦織が、細谷が残ることを望んでいたのだ。

 細谷にとって、錦織の決勝進出という快挙は想定内のことだった。トップ10プレーヤーのみならず、ここ1、2年はノバク・ジョコビッチ(セルビア)、ラファエル・ナダル(スペイン)、ロジャー・フェデラー(スイス)の“ビッグ4”からも白星を挙げるようになっていたため、細谷は錦織がグランドスラムのファイナリストになる日はそう遠くはないと感じていたからだ。

 さらに細谷は、今大会は好条件がそろったことも理由として挙げた。
「私の個人的な考えですけど、ここ数年の世界のテニスを見ていると、故障明けというのは意外とチャンスなのかなと。休んで、体がフレッシュな状態で臨めることが大きいんだと思いますね。ただ圭はどちらかというと、しっかりと休みをとって、というよりは、試合までの間に練習で追い込んで、そこから上げていくタイプ。だから、今大会はどうなのかなとは思っていましたが、休んだことがプラスに働いたみたいですね。それと、今回は組み合わせも良かったと思うんです。1回戦、2回戦、3回戦と、うまい具合に徐々に相手のレベルが上がっていった。そういうのも、あったんじゃないかなと思うんです」
 準決勝までの対戦相手のランキング(当時)を見ると、176位、48位、26位、6位、4位、1位と、きれいに上がっている。本来なら大会前に調子を上げていく錦織だが、それを実戦で行なうことができたのだろう。

 勝利に貢献した“この1本”

 細谷は今回の全米オープンで、錦織のラケットのストリング張りをすべて担当した。練習で使用したものまで含めて、その数は60本を超える。その中で、細谷が“この1本”と感じたのが、4回戦のラオニッチ戦だった。

 通常、選手たちは試合前日にストリング張りを依頼する。その数は選手によってまちまちだという。1セット1本を目安とする選手が多く、グランドスラムでの男子は5本、ないしはそれに1本プラスして6本というのが平均的だが、1、2本と極めて少ない選手もいないわけではない。では、錦織はどうなのか。

「圭は多い方ですよね。これまでは6本でしたが、今大会は毎試合7本出してきました。そんなに出す選手は、ほとんどいないと思いますよ。しかも、圭の場合は、オンコートが多いんです」
「オンコート」とは、試合中にストリング張りを依頼することだ。つまり、緊急で追加するのだ。これはストリンガーにとって、大変な作業である。試合中に間に合わせなければならないため、時間との勝負となる。

 ラオニッチ戦、錦織は3本、オンコートを要求している。まずは4−6で落とした第1セット終了後、細谷の元に2本のラケットが届いた。この時、細谷は錦織がこの試合に勝つ気でいることを感じたという。
「圭がオンコートを出す時は、必ずと言っていいほど勝つんです。逆に、オンコートが1本もない試合は、負けることが多い。おそらく、『この試合は勝てる』という手応えをつかんだ時は、長丁場になることを想定して出してくるんでしょうね」

 ラオニッチ戦での錦織は、勝てると確信していたのだろう。だからこそ、第1セットを落としながら2本もオンコートで出したのである。自分が勝利するためには、少なくとも4セットマッチとなる。それを踏まえてのことだったのだ。

 そして最後の1本は、最終の第5セット、ゲームカウント2−1でリードしての第4ゲームに入る時だった。これが、勝敗を分けたひとつだったのではないか、と細谷は見ている。
「第5ゲームを、その1本でブレークしているんです。結果論ですけど、最後の1本を出さずに、そのまま使い続けていたら、わからなかったかなと」
 4時間19分にも及んだ死闘は、細谷にとってもストリンガー冥利に尽きる勝利だった。

 流れを変えられなかった決勝

 一方、今大会は反省材料もあったという。それは決勝でのことだった。その日も錦織はオンコートを出してきた。しかし、最後までマリン・チリッチ(クロアチア)の優勢は変わらず、錦織はストレート負け。彼本来の実力を出し切れず、消化不良の試合となった。そして、細谷にとっても悔しさが残った。
「オンコートがあったにもかかわらず、その1本で流れを変えることができなかった。何とかしてやりたかったんですけどね……」

 その悔しさの裏側には、試合前の反省があった。それは、ストリング張りの時間だ。ラケットに張られたストリングは、時間の経過とともに、ほんのわずかだが緩みが生じる。それを好むも好まないも、やはり千差万別なのだという。そのため、試合開始から逆算して計算し、前日の夜に張るのか(夜張り)、それとも当日の朝に張るのか(朝張り)、リクエストする選手も少なくない。錦織は張ってから時間を経ず、張り立ての状態を好むので、「朝張り」することが多いという。

 だが、今大会に限っては錦織は「夜張り」を望んだ。
「選手は大会が始まる前に練習で打って、感触を確かめるんです。打った感触は、気候やコートの質といったコンディションによって違いますし、その時の自分自身の調子によっても変わってきますからね。だからテンションが異なるものや、朝張り、夜張りのものを用意して試打するんです。今回、圭は珍しく夜張りがいいと言ってきました。感触として、夜張りの方が軟らかくてコントロールしやすかったみたいですね」

 決勝のラケットも、細谷は前日に夜張りをした。だが、決勝が終わった時、それが間違った選択だったのではないかという思いが沸き起こってきたのだ。
「それまで通り、決勝の前日も夕方5時くらいから張り始めたんです。圭は準決勝からは7本から9本に増やしていましたから、とにかく時間がかかる。だから早めにとりかかったんです。でも、決勝の試合開始時間は夕方5時。ほとんどナイトセッションに近い時間帯でしたから、もう少し遅くに張り始めたら良かったのかなと。もしかしたら、当日に朝張りしても良かったんじゃないかと思ったんです。実際、夜10時過ぎから始まったラオニッチ戦だけは朝張りをしていましたから」

 決勝戦はコントロール力に定評のある錦織には珍しくミスが目立つ試合だった。それを見て、細谷はストリングが少し緩かったのではないか、と感じていたのだ。
「もう少し遅い時間帯に張っていれば、もっと硬い状態だったと思うんです。そうすれば、ボールの飛びをもっと抑えられていたのかなと。もちろん、緊張もあったでしょうし、その日の調子も関係はしていたと思いますが、ストリンガーとして自分がやれることを考えた時、張る時間をもっと考えるべきだったなと思いました」
 錦織の快挙の裏には、こうしたたくさんの支えと思いが詰まっているのだ。

(後編につづく)

細谷理(ほそや・ただし)
1969年、神奈川県生まれ。高校時代は硬式テニス部に所属。大学卒業後は高校の非常勤講師を務め、その後、知人の紹介で英国の日本人学校に赴任し、英語教師となる。帰国後はスポーツ用品店に勤務し、ストリンガーとして歩み始める。2001年からはツアーストリンガーとして、ATPツアーを回っている。10年、神奈川県茅ヶ崎市にテニスショップ「On Court (Racquet)!」をオープンさせた。
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