「何としてでも、オリンピックに行きたい」。13年前、単身で渡った米国の地で、川北元はそう心に誓いながら、毎日自転車を漕ぎ、さまざまな指導者の元を訪れていた。
「当時は、将来なんてまったく見えていませんでした。でも、とにかくいい指導者になりたいという思いだけで、走り回っていましたね。そして、指導者としてオリンピックに行きたいと思っていました。だから毎日、“どうやったら、あの場に行けるほどの指導ができるようになるんだろう”ということばかり考えていました」
 その頃は何の伝手ももたなかった川北は、いい指導者と聞けば、その場に足を運び、どんな指導をしているのかを勉強させてほしいと直談判したという。川北の指導者への道は、まさにゼロからのスタートだったのである。
 川北は、米国女子代表チームのコーチという異色の経歴をもつ。実はこれもいわゆる“飛び込み”で交渉したというのだから驚きである。05年から同チームの指揮官を務めたのは、1996年アトランタ五輪で中国女子代表チームを銀メダルに導いた中国人監督の朗平だった。朗平監督の下で約4年間、実際に指導しながらコーチングを勉強した川北は、最後の08年北京五輪ではチームに帯同し、決勝戦を戦う姿を目の当たりにすることができたのである。同大会で米国は92年バルセロナ五輪以来となる表彰台に上がり、銀メダルを獲得した。この経験が川北にとって、何にも代え難い財産となっていることは想像に難くない。

 その朗平監督と、12年ロンドン五輪で全日本女子を28年ぶりの銅メダル獲得に導いた眞鍋政義監督とには、共通点があるという。それは選手のみならず、コーチ陣に対しても適性を見抜き、明確な役割を与えることだ。朗平監督の下で指導する中で、こんな出来事があった。北京五輪の2年ほど前、新しく代表に招集された選手がいた。キム・グラスだ。北京五輪ではエースのひとりとして活躍したプレーヤーである。グラスはパワフルなスパイクを武器としており、攻撃面での能力の高さは、ジュニア時代から誰もが認めるところだった。だが、その反面、守備に至っては世界で通用するレベルではなかった。

 先入観なしのフラットな評価

 するとある日、朗平監督は川北に「元さん、お願いね」と言って、グラスを預けたという。何をどう指導しなさい、という明確な指示はまったくなく、一任されたのだ。隣のコートでは、他の選手たちがゲーム形式の練習を行なっていた。それを見て、グラスが「あぁ、私は完全に外されたんだ」と落ち込んでいることはすぐにわかった。そこで川北はまず、グラスに「君の能力をさらに伸ばすために、ここにいるんだよ」と伝え、メンタル面の立て直しをはかるところから始めた。そうして川北によるグラスへのマンツーマン指導が始まったのだ。運動能力が高いだけあって、1、2週間もすると、グラスの守備力は格段に上がった。するとある日、朗平監督がこう言った。「元さん、あの子、本当に上手になったね」。その日、グラスはゲーム形式の練習に参加し、早速レギュラーとして起用された。この時、川北は朗平監督の指導がどういうものかを少し理解できたような気がした。

「朗平監督には、僕らコーチ陣も見抜かれているんだな、と思いましたね。『このタイプの選手は、このコーチに任せよう』『こういうことを指導するには、このコーチが適しているな』ということを考えながら、役割を与えてくれているんだなと。キム・グラスへの僕の指導が本当に良かったかどうかはわからないけれど、おそらく朗平監督は“キム・グラスを指導するには元が適している”と思ってくれて、僕を指名してくれたんだろうなと思います。コーチ陣の能力もうまく引き出してくれる監督でしたね」
 そして、こう続けた。
「そういう面で、眞鍋監督と非常に似ているなと思うんです」

 09年に全日本女子の監督に就任した眞鍋監督は、従来とは異なるコーチ陣の分業制をしいた。この時、戦術・戦略コーチに抜擢されたのが、眞鍋監督が全日本女子監督就任前に指揮していた久光製薬スプリングスでコーチ兼任通訳を務めていた川北だった。「全日本女子の戦術・戦略コーチ」という重責を負うポジションへの打診を受けた際、川北はあまりの驚きに、思わず一歩下がるほどの衝撃を受けたという。
「正直、そんな重い役職を、僕なんかがやっていいんですか、という気持ちでしたし、眞鍋監督にはそう言った記憶があります」
 しかし実際、川北はロンドンでは銅メダル獲得に貢献した。眞鍋監督が踏んだ通り、適材適所だったという何よりの証であろう。無論、それは他のコーチもしかりである。

 こうして見てみると、朗平監督にも眞鍋監督にも共通しているのは、人を見抜く力である。選手に対してもコーチに対しても、過去の実績による先入観はなく、平等に見て評価し、明確な役割と責任を与える。それが2人の優れたマネージメント能力の裏付けのひとつとなっているのだ。

 サーブレシーブが崩れた時こその得点力

 さて、前編で紹介した“ハイブリッド6”によって、全日本女子は今年8月のワールドグランプリで銀メダルを獲得した。しかし、その約1カ月半後に行なわれた世界選手権では、まさかの2次ラウンドでの敗退を喫した。そこで浮上した課題のひとつが、「スピードアップ」だ。

「世界選手権では、チームが負けた後も私とアナリストの宮脇(裕史)は残って、決勝まで観てきたんです。そこで感じたのは、攻撃のスピードをさらに速くしていかないといけないなと。特に優勝した米国のチームを見て思ったのですが、あれだけ高さも運動能力もある相手から得点を取るというのは、並大抵のことではありません。やはり日本の武器であるスピードをレベルアップしていく必要がある。それも単にスピードアップするのではなく、より効果的に点数が入ることにつながるような精度が求められる。それが今後の大きなテーマとして突き詰めていかなければいけない課題だと思います」
 このスピードアップには、瞬時の判断力も含まれている。

 全日本にとって勝敗を分けるひとつのポイントとなっているのが、サーブレシーブであることは言を俟たない。きちんとセッターのいるポジションにレシーブを上げる「Aパス」さえ上がれば、セッターは自在にトスを上げることができ、攻撃パターンの選択肢が増える。そのため、得点力はサーブレシーブの出来によるところが大きいと考えられ、いかにAパスの数字を上げることができるかがテーマとされてきた。

 サーブレシーブが得点力を左右することは、“ハイブリッド6”においても同様であることは、世界選手権を見ても明らかである。しかし、眞鍋監督率いる全日本女子の視点は、これまでとは少し違うところにあるようだ。
「もちろん、サーブレシーブの成功率を高めることは必要ですが、これからは“Aパスだから”“BやCパスだから”という概念を払拭して、どんなシチュエーションでも得点できるようにしていかなければ世界には勝てません。ですから、サーブレシーブが崩れた時に、どう攻撃していくか、ということが非常に重要なテーマになると思います」

 求められる心技体のスピードアップ

 そこで求められるのが、スピードだ。攻撃パターンが単調になる可能性が高い分、動きやボールのスピードアップは欠かすことはできない。そして、もうひとつある。それは瞬時の判断力だ。
「ボール自体のスピードを上げるためには、まずはそれについていけるだけのフィジカルが必要です。そして、もうひとつは判断力。サーブレシーブが崩れて、攻撃パターンが絞られた時、じゃあ、その絞られた中で、この場面では何を選択すれば、確実に得点することができるのかを、瞬時に判断しなければなりません。その考えるスピードも求められてきます」

 セッターは相手と味方の位置を把握して、誰にどんなトスを上げるのが一番効果的なのかを考えなければならない。そして、アタッカーは相手のブロックや守備配置を見て、どの方向にどんなアタックを打てば得点になる可能性が高いのかを判断しなければならない。技術面のみならず、思考面でのスピードアップも求められているのだ。
「サーブレシーブがきちんと返った時には、基本的には得点する力は既にありますから、崩れた時の攻撃力を高めていけば、自ずと得点力はアップするはずです」

 開幕まで2年を切ったリオデジャネイロ五輪で金メダルを獲るためには、もちろん勝敗は重要である。だが、それとは別にチームが目指すバレーボールができているかどうかを問うこともまた、プロセスにおける重要な要素であろう。そういう意味では、今後の全日本女子を見る際のポイントは主に2つあると考えられる。1つは得点の割合が1人や2人が突出しているのではなく、セッター以外の5人に分散されているかどうかということ。そしてもう1つは、サーブレシーブが崩れた時でもスピードを落とさず、効果的に攻撃できているか、である。そのためにも「さらなるチーム全体のハイブリッド(混ぜ合わせること)が必要」と川北は言う。

 来年8、9月には、ワールドカップが行なわれ、上位2チームは早くもリオへの切符が手渡される。もちろん、全日本女子が表彰台その2枚の切符を狙っていることは言を俟たない。ロンドン五輪の1年前に行なわれたワールドカップの際、眞鍋監督はこう語っていた。
「オリンピックでメダルを獲るためには、1年前のワールドカップで出場権を得て、しっかりと準備していけるかどうかが非常に重要だと思っています」
 今回は「メダル獲得」ではなく「金メダル獲得」を考え、ワールドカップでの出場権獲得に全力を尽くして挑むつもりであろう。そのワールドカップまでに、日本はどれだけ進化を遂げられるのか――。いよいよリオに向けた真の戦いが始まろうとしている。

(おわり)

川北元(かわきた・げん)
1976年、東京都生まれ。順天堂大学バレーボール部で活躍。同大学大学院卒業後の2001年、コーチングを学ぶために単身渡米する。現地の大学や米国女子代表チームで分析や指導を行ない、08年には北京五輪で米国女子代表チームの銀メダル獲得に貢献した。同年、眞鍋政義現全日本女子チーム監督からの誘いで、久光製薬のコーチ兼通訳となる。09年からは眞鍋監督の下、全日本女子チームの戦術・戦略コーチを務め、現在に至る。

(文・写真/斎藤寿子)
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