振り返れば、波乱万丈の格闘人生だ。大相撲で13年、プロレスで39年。「もう腹いっぱい」。先頃、独特の言い回しで、この11月限りでの現役引退を発表した天龍源一郎の口から興味深い発言が飛び出した。「あれは先代の天竜さんが起こした春秋園事件と同じくらいの衝撃をプロレス界に与えたと思いますよ」
 春秋園事件――。1932年1月に発生した力士による争議事件である。東京・大井町の中華料理屋「春秋園」に立てこもった大関・大ノ里や関脇・天竜らを中心とした改革勢力は相撲協会に力士の待遇改善に関する十箇条の要求を突き付けた。中身は相撲協会の会計制度や養老金制度の確立など、しごく真っ当なものだったが守旧的な協会は、このうちの一部しか認めず、やむなく天竜たちは新団体を設立した。だが長くは続かず、後に天竜は満州に渡る。

 天龍が自らを先代になぞらえたのは90年4月の全日本プロレス離脱劇である。天龍はその頃、天龍同盟という別派を率いていた。「関東の小さなまちに試合に行く時、レンタカーを借りようとした。1万5千円くらいだったかな。その時に会社から“1万5千円のチケットを売るのが、どれだけ大変かわかっているか”と断られた。こっちは身を削るようにして戦っているのに、いったい何なんだと。そういう小さな不満が蓄積していたのかもしれない……」

 後に天龍はメガネ量販チェーンの社長から誘われ、SWSに移籍する。この新興団体は約2年で幕を閉じたが、天龍は「オレのとった行動が(プロレスラーの)待遇改善につながった」という。「全日本も新日本も、オレに追従されたら困ると思ったんだろうね。残った選手は皆、ファイトマネーや退職金がはね上がった。それまでは基本的に全日本をやめたら新日本には行けなかったし、その逆もなかった。そうした暗黙の了解をぶち破ったんだから、オレはスゴイことをしたと自負していますよ」

 思い返せば、天龍が相撲を廃業し、プロレスラーに転じたのも、二所ノ関部屋の後継問題を巡る押尾川事件がきっかけだった。この時も天龍らは台東区の寺院に立てこもった。マゲを切る際には福井にいる父親から「オマエと刺し違えてやる」と凄まれた。美男力士から反骨のファイターへ。格闘技の酸いも甘いも知る男も、もう65歳。「しけばかりの長い航海」が、やっと終わる。

<この原稿は15年4月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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