北京五輪で悲願の金メダルを狙う星野ジャパンの代表24選手がようやく発表された。前回のアテネ大会に続き、オールプロで本番に臨む日本代表だが、五輪野球といえば、かつてはアマチュア選手たちの檜舞台だった。五輪野球の魅力とは、国際大会を勝ち抜くポイントとは――。バルセロナ、アトランタ、そしてシドニーと3大会連続で五輪に出場し、“ミスター・オリンピック”と呼ばれた杉浦正則(現日本生命監督)に過日、二宮清純がインタビューを行った。その一部を紹介しよう。
二宮: 杉浦さんが最初に出場した五輪は92年のバルセロナ大会。それから3大会連続で五輪の舞台を経験されました。プロに行く道を選ばず、五輪にこだわった最大の理由は?
杉浦: やはり五輪というか国際試合の魅力に惹かれたからですね。プロはペナントレースで勝ったり負けたりしますが、国際大会は一発勝負。負けたらそこで終わりです。
 初めて日本代表に選ばれた時、山中正竹監督(当時)からミーティングでこんなことを言われました。「このチームは五輪に出て金メダルを目指すんだ」。その瞬間、心がグラリと動きました。「スポーツの祭典に野球で出られる。じゃあ絶対に行ってやろう」と。

二宮: 初めての五輪(バルセロナ)は銅メダルでした。
杉浦: 準決勝の台湾戦でリリーフして2本の本塁打を浴びて負けました。これは悔しかった。世界の舞台で、もう1度やりたいという気持ちになった。もし最初に金メダルを獲っていたら、ここまで五輪へのこだわりはなかったかもしれません。

二宮: 4年後のアトランタ大会(96年)、日本代表は谷佳知(現巨人)、松中信彦(現福岡ソフトバンク)、福留孝介(現カブス)と、後にプロで活躍するメンバーが揃っていました。準決勝では杉浦さんの好投で地元・米国を11−2で下しました。悲願の金メダルは目前でした。
杉浦: でも最後にキューバにやられてしまいましたね。先発で2回途中まで投げて5失点でした。

二宮: 当時のキューバはキンデラン、リナレス、パチェコの全盛期。メジャーリーグも顔負けと言われるほど、圧倒的な強さを誇っていました。
杉浦: だからこそ敵わない相手を叩きたいという気持ちがあったんです。彼らのすごいところはパワーと集中力。1巡目は抑えてもゲームが後半になるにつれて、甘いボールを見逃さなくなる。国の名誉や自分たちの生活がかかっているという思いがそうさせるのでしょう。心理学者を帯同させて、壁一面、真っ赤な部屋に閉じ込め、メンタルトレーニングをしているといった話も聞きました。
 もちろんパワーのみならず緻密さも兼ね備えていました。二塁打コースの打球に対して、外野がセカンドへのんびり返球していると、一気にサードを陥れたり、スキがあればドンドン仕掛けてきましたね。

二宮: 今回限りでひとまず野球は五輪の正式種目から除外されてしまいます。野球最後の大会で星野ジャパンにはぜひ金メダルを獲ってほしいという声が強い。そのためのポイントは?
杉浦: 何が起きても動揺しないことが大事です。この前のアジア予選で韓国が直前にメンバーを変えたように、国際大会は何が起こるかわかりません。

二宮: 適応力が問われるもののひとつとして、審判のストライクゾーンがある。国際大会の審判は基本的には外角に甘く、内角に厳しいと言われていますが、昨年のアジア予選ではそうでもなかった。韓国戦では岩瀬仁紀(中日)がインコースに投げて見逃し三振を奪い、ピンチを脱したシーンがありました。
杉浦: あの時は韓国の選手たちがベース寄りに立って、インコースは当たりにいっていましたからね。それが球審の心証を害した面もあります。外国の審判は日本みたいにゾーンがきっちりしているわけではありません。計算が立たない分、ピッチャーにとっては不利です。僕は状況に応じて、ファールを打たせてカウントを稼ぐことも考えていました。リズムに乗せてしまうと、結構ボール球でもストライクに取ってくれますから、うまく審判を味方につけることが大切です。

二宮: ピッチャーの場合、もうひとつ肝心なのはマウンドへの対処。シドニー五輪の予選では、初戦で投げた杉浦さんがソウルのチャムシル球場のマウンドの特徴を松坂にアドバイスしていましたよね。
杉浦: 中国や台湾のマウンドはおわんをかぶせたように、傾斜がなだらかな印象があります。前の部分を削っておかないと、前足を踏み込んだときに地面に足が当たってしまいかねない。僕は90年のアジア大会で北京の球場で投げましたが、あの時は後ろ側がガクンと落ちるマウンドで腰を痛めましたよ。

二宮: その点、今回は投手では岩瀬や上原浩治(巨人)、野手では宮本慎也(東京ヤクルト)など、アテネの経験者も代表入りしています。国際大会の戦い方を熟知しているのは大きい。
杉浦: 宮本は大学(同志社大)の2つ後輩です。大学時代もキャプテンをしていましたし、野球に対する姿勢は素晴らしいものがあります。それでもアテネで最初にキャプテンを務めた時は、少し悩んでいた。壮行試合でプロ野球選抜に負けた時には「どうしましょう?」と相談を受けました。僕はテレビで見ていて、ベンチにいる選手たちがバットを握ったり、グラブを見たり、試合に集中できていないのが気になっていました。「あれじゃ、国際大会では勝てないぞ」とストレートに伝えました。そして「キャプテンとして、自分自身が必要だと思ったことは後悔しないようにやってみたらどうだ」とアドバイスしました。
 それから彼は自分の背中でチームを引っ張ることを考えたのでしょう。一塁へヘッドスライディングを見せたり、練習で打撃投手を務めたり……。その姿勢をみて選手たちがひとつにまとまったことは間違いありません。最近では連絡もなくなりましたね(笑)。

<この原稿は講談社『本』08年8月号に掲載された内容を抜粋したものです>