日本水泳連盟の古橋広之進名誉会長が2日、世界選手権が開催されていたローマで急死した。80歳だった。現役時代は自由形で33度も世界記録を更新したといわれ、“フジヤマのトビウオ”として世界を驚かせた。また引退後は水泳連盟の会長や日本オリンピック委員会(JOC)の会長を歴任。長きにわたって日本スポーツ界を牽引してきた。
 古橋氏の競技人生は決して順風満帆と言えるものではなかった。学童新記録を打ちたて、“豆魚雷”とのニックネームをつけられながら、太平洋戦争により水泳を一時断念。勤労動員で駆り出された砲弾工場での作業中、旋盤に左手の中指を挟まれ、第一関節から先を失った。

 水泳を再開した戦後、猛練習の末、1947年の日本選手権で当時の世界記録を上回るタイムで優勝。しかし、敗戦国の日本は、国際水泳連盟から除名されており、記録は公認されなかった。さらに翌年の同選手権では、日本が参加を認められなかったロンドン五輪の金メダリストを上回る自己ベストを樹立。だが、念願の出場を果たした4年後のヘルシンキ五輪では、体調不良もあって400メートル自由形で8位に終わった。日本の競泳界で一時代を築きながらも、歴史の大きな波に翻弄された現役生活でもあった。

 引退後は後進の指導にあたり、1985年から日本水連の会長に就任。18年間の在任期間中には88年ソウル五輪の鈴木大地(100メートル背泳ぎ)、92年バルセロナ大会の岩崎恭子(200メートル平泳ぎ)など金メダリストが誕生し、その後の競泳ニッポン復活の基礎をつくった。一方で2000年のシドニー五輪での選手選考をめぐって、千葉すずがスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴した際には、選考基準の曖昧さを指摘され、その対応には批判も受けた(以後、水連は選考システムを明確化)。

 90年からは5期9年にわたり、JOCの会長も兼任。1998年の長野冬季五輪を成功に導いた。今回のローマ滞在中には国際水泳連盟の総会で副会長職に再任され、メダルのプレゼンターを務めるなど、亡くなる直前まで現場で職責を果たした。選手に対する口癖は「魚になるまで泳げ」。世界に名を残したリーダーの遺志は若いスイマーたちに脈々と受け継がれていくに違いない。

二宮清純コメント
 突然の悲報にショックを受けた。「巨星堕つ」という感じだ。今は野球でもサッカーでも世界を相手に闘っているが、“世界レベル”という物差しを日本スポーツに導入したパイオニアだった。古橋さんにプロレスの力道山が憧れ、その力道山にプロ野球の長嶋茂雄が憧れた。それだけでも功績の偉大さがわかる。敗戦から日本が世界に追いつけ、追い越せと頑張っている時代に、古橋さんはそれを具現化した。競泳界、スポーツ界を超えた戦後日本のヒーローだった。

 古橋さん以後、平泳ぎや背泳ぎなどでは世界の頂点に立つ選手が出たが、残念ながら自由形では“フジヤマのトビウオ”を超える日本人は現れていない。古橋さんは常々、水泳競技の花形である自由形について「もっとも強化が必要な種目」と語っていた。

 高速水着が騒動になった昨年の北京五輪前、古橋さんはこんなことを口にしていた。
「昔はフンドシをして泳いでいたんだよ。水着のことで騒ぎすぎじゃないか」
 悲しいかな我々は2度と「フンドシ」の時代には戻れない。だが、“世界に追いつけ、追い越せ”と奮闘した古橋さんの魂は今後も競泳選手のみならず、すべてのスポーツ選手に受け継がれていってほしい。