横浜の新監督に就任した尾花高夫は投手コーチとして千葉ロッテ、ヤクルト、福岡ダイエー(現ソフトバンク)、巨人の4球団を渡り歩き、7度のリーグ優勝、4度の日本一に貢献している。
 私が彼に抱くイメージは地味ながら「仕事のできる男」。冷徹な切れ者との印象がある。
「たとえば巨人の原辰徳監督だって、ある意味レールに乗って監督になった。その点、僕は叩き上げですから……」
 叩き上げ、という物言いに、自らの腕一本で地歩を築き上げてきたとの強烈な自負がにじむ。

 この国に大臣と名の付く者は内閣総理大臣を筆頭に18 人もいるが、プロ野球(NPB)の監督のイスは12しかない。一度でもプロ野球のユニホームに袖を通したことのある者にとっては憧れの職業である。
 しかし昨季の横浜は勝率わずか3割5分4厘。目下、2年連続最下位の弱小球団。尾花の監督就任に対しては「火中の栗を拾うようなものだ」との冷めた声もある。
 企業にたとえれば破綻懸念先の社長を引き受けるようなものだろう。

 そもそも尾花に勝算はあるのか。
「巨人の投手コーチとして見ていた横浜は“おいしい球団”。しかし選手個々の素材は悪くない。僕の中で“こうすればよくなるのに”との思いは、それなりに持っていました」

 そう言って尾花は目の前の資料に目を留めた。首をひねったのがリーグワースト2位の425という与四球数だ。
「なぜ、こんなにも多いのだろう……。四球の原因は主に2つあります。ひとつは技術的に未熟であること。これはブルペンでストライクを投げさせる練習をすることによってしか解決しない。2つ目はメンタル的な理由。ピッチャーは“打てるもんなら打ってみろ!”と腹をくくって投げなければいけない時がある。それを避けていたのでは、いつまでたっても上達しない。どうも横浜のピッチャーには、勝負する前に負けているようなところがあった。これでは話にならない」
 表情は柔和だが口調は厳しい。ある球界の大立者が尾花を評して、「情に溺れない男」と語っていたことを不意に思い出した。

 高校野球の名門・PL学園から社会人野球の強豪・新日鉄堺へ――。アマチュアの経歴だけ見ればエリートコースだが、実際に歩いてきた道のりはずっと日陰だった。
「PL学園出身とはいっても僕は甲子園での試合にも出ていない。僕の前と後の学年は(3年時に甲子園に)出ているのですが、僕の年はダメでした。エースの僕がだらしなかったもので(苦笑)。プロのスカウトなんて影もなかった。
 新日鉄堺時代も大した活躍はしていない。プロのスカウトの目に留まったのは中出謙二(1977年南海1位)という肩の強いキャッチャーがいたから。たまたま僕が飽きもせずにグラウンドを走っている姿が“広岡(達朗)さん好み”ということで評価されたようなんです。これは後でスカウトから聞いた話ですが……」

 78年、ドラフト4位でヤクルト入団。監督は厳格で鳴る広岡だった。
 ドラフト4位入団とはいえ、社会人出身である。2〜3年ファームを経験してから1軍へ、などと呑気なことは言っていられない。
 しかしキャンプのブルペンで尾花は、ハンマーで後頭部を殴られるようなショックを受ける。自らの投じるストレートだけが止まっているように見えたのだ。

 尾花の述懐。
「当時、ヤクルトはアリゾナ州のユマで春のキャンプを行っていた。ブルペンに入ると1つ年上の永川英植さんと1つ年下のサッシーこと酒井圭一がいた。二人とも甲子園を沸かせたドラフト1位の選手です。
 ウワサには聞いていたが、2人とも凄いボールを投げていた。サッシーのストレートはヒュンと手許で浮き上がってきた。一方、永川さんのストレートは速い上に重い。キャッチャーミットにドッスンと入る感じ。
 ところが2人ともプロでは勝っていない。なぜこれほどのボールを投げるピッチャーが勝てないのか、僕はプロに入って3日目で“この世界でやるのは無理”と覚悟しました」

 尾花と酒井、永川とでは素質的には特急電車と新幹線くらいの差があった。自信を喪失するのは当然だ。しかし、ふと横を見ると動いているのか止まっているのかわからないような老朽化した在来線が走っていた。
「安田(猛)さんですよ(笑)。失礼ながら、この人は本当に遅かった。絵に描いたようなヒョロヒョロ球。とても真面目に投げているようには見えなかった。左からヒョイという感じ。
 しかし、この人は毎年のように15勝くらい勝っている。なぜ、こんなヒョロヒョロ球で勝てるんだろう……。それで観察を始めるとコントロールが抜群にいいんです。そうか、これが1軍であれだけの結果を残せる理由なのかと。それから僕は安田さんのピッチングをお手本にすることにしたんです」

 1年目は1勝しか挙げられなかったが、球団史上初のリーグ優勝と日本一を経験した。2年目は4勝、3年目は8勝と勝ち星を順調に伸ばしていった。
「当時の僕の目標は毎年、ひとつずつ球種を増やしていくこと。2年目のユマキャンプでパドレスのロリー・フィンガーズにスライダーを教えてもらってからピッチングに幅ができた。
 そして次の年は(後の)300勝投手、ゲイロード・ペリーからフォークボールを教わった。最終的に変化球は5種類にまで増えた。自分の生きる道が開けてきた思いがありました」

 入団5年目の82年は12勝(16敗)4セーブ、83年は11勝(10敗)6セーブ、84年は14勝(8敗)7セーブ、85年は11勝(8敗)7セーブと4年連続で2桁勝利を記録する。
 もし、当時のヤクルトが強いチームだったら、もっと勝ち星は伸びていたに違いない。
 この不遇の時期に、勝つことの尊さを嫌というほど味わったと尾花は言う。

「86年から88年にかけて、僕は3年連続で最多敗戦投手になっているんです。誰よりも勝ちたい気持ちは強いのに、どうしても勝てない。大体のシーズンが5位か6位で、ヤクルトは一番最初にシーズンが終了してしまうチーム(苦笑)。
 もう本当につまらなかったですよ。勝ちゲームというのは緊張するし、胃は痛いし、ハラハラもする。そうやってチームは成長していくものなんです。
 だが僕たちはそういう心地良い緊張感を味わうことができなかった。だから余計に指導者になって勝利への希求が強くなったのかもしれない。野球って、とにかく勝たないとおもしろくないんですよ」

 尾花には忘れられないゲームがある。1983年5月19日、神宮での阪神戦だ。ヤクルトは先発のマウンドに甲子園のヒーロー荒木大輔を送った。しかも予告先発。神宮球場は満員の観客で埋まった。
 5回が終わった時点で1対0。このあと、リリーフとしてマウンドに上がったのが尾花だ。
「これは本当にプレッシャーでした。何としても彼に初白星をプレゼントしなければいけないわけですから。結果的には僕がセーブをあげ、2対1で逃げ切ったのですが、あの時は荒木だけじゃなく、監督もベンチもスタンドも皆が喜んでくれた。今となってはいい思い出です」

 実働14年で112勝135敗29セーブ。弱小チームだったがゆえに先発もリリーフも経験した。勝てない悔しさも味わった。
 どうすればうまくなれるか、どうすれば勝てるか、どうすれば皆で喜びを分かち合えるか。それを考え続けてきたことが、後にコーチとしての成功を彼にもたらす。

(後編につづく)

<この原稿は2009年12月19日号『週刊現代』に掲載されたものです>