尾花の指導者としての資質を誰よりも認めているのがヤクルト入団当時の監督・広岡である。自著『野球再生』(集英社インターナショナル)で、こう述べている。
(写真:8日に行われた横浜の新入団選手発表より)
<2005年、巨人の秋季キャンプに訪れて感心したのは、投手コーチに就任したばかりの尾花の教え方だった。(中略)
「いい球を投げたいだろう。じゃ、どうすればいい。一足半ほど踏み出す足の幅を広げてみようか」
 一足半というのは、投手の脚のサイズの1.5倍の長さをいう。わずか40センチかもしれないが、これがなかなかできない。投げ慣れてきた幅を変えることは、投手にしてみれば土台から投球を変えるようなもの。戸惑いは隠せないが、尾花の「大丈夫。いい球が投げられる」という自信たっぷりの言葉が、彼らの背中を押す。(中略)
 まず「どうすれば、良くなる」という目的意識をしっかり持たせる。次に、実践させて、各自の能力を認識させる。そして、当面の課題を明確にしている。
 尾花は「まだ、お前たちは投球うんぬんという段階ではない。体をつくることが、一番の課題なのだ」ということを、夢を持たせながら説いたのだ。手順としては、実によく整理されている>

 現役を引退した尾花に真っ先に声をかけたのも広岡(当時千葉ロッテGM)だった。尾花にとって広岡は、いわば“野球の父”である。
「広岡さんからコーチの話が来た時は本当にうれしかった。給料は解説者時代よりも安くなるけど、そんなことはどうでもよかった。
 広岡さんと言うとコワモテのイメージがあるけど、実はそうじゃない。僕が“GM、僕はこういうふうに考えています”と言うと、“そうか、それは良いな”とやらせてくれる。
 広岡さんから学んだのは、まず否定から入らないこと。“こんなん言うたら、また怒られるか”と思うとコーチは何も話せなくなりますよ。その点、広岡さんはコーチと一緒になって考え、一緒になって悩む。結論が出なければ“よし、これは明日までの宿題にしよう”と。これは選手との関係にも当てはまります。僕のコーチとしてのベースをつくってくれた恩人です」

 尾花にとって広岡が“野球の父”なら、野村克也は“野球の師”である。
 ヤクルトに戻った尾花は野村の下で2年間、投手コーチを務め、97年のリーグ優勝と日本一に貢献した。
「野村さんがヤクルトの監督に就任したのは僕が引退する前年のことです。
 例のボヤキですが、ベンチで何かボソボソとしゃべっている。聞き耳を立てると“あぁ、これはやられるぞ”とか言っている。キャッチャーのミットの構えるコースを見て、配球について述べているんですね。
 これが恐ろしいほどよく当たる。打たれると“ほら、見てみぃ”。試合が終わった後は、それを題材にしてすぐにミーティングです。
 野村さんはミーティングで必ずボードを使う。注意点をしっかりと書き込むんです。これまではミーティングといっても監督やコーチが口頭で注意するだけでした。
 だから余計に野村さんのミーティングは新鮮だった。今まで漠然と“こうじゃないかなぁ”と思っていたことを、すべて根拠を元に明らかにしてくれる。まるで授業を受けているようでした」

 広岡に野球の基礎を学び、野村から高度な知識を授かった尾花にダイエーの監督・王貞治(当時)から電話が入ったのは98年の秋のことだった。
「やぁ、王です」
「王? どちらの王さんですか?」
 尾花は怪訝な表情で聞き返した。知り合いに王という姓を名乗る者はいなかったからだ。

「あぁ申し訳ない。福岡ダイエーホークスで監督をしている王貞治という者です」
「王貞治……えぇ、王さんですか!?」
 受話器を握ったまま尾花は立ちあがった。直立不動のまま話を続けた。
「ウチを手伝ってくれないか?」
「ありがたいお話ですが、僕はまだ監督の野球観がわからない。一度、お話をさせてもらえませんか?」

 2日後、王は秋季キャンプを行っていた高知から尾花の下へ飛んできた。
 チームの指揮を執って丸4年、王は結果を出せないでいた。投手力の向上というチームにとって最大の難題を王は尾花に託したのである。

 99年、開幕試合でのことだ。場所は西武ドーム。先発は西武が西口文也、ダイエーは西村龍次だった。
 試合前、尾花は監督室を訪ねた。
「監督、今日は何対何の試合を想定されていますか?」
 見る間に王の眉間にシワが寄った。
「なんで、今そんな話をしなければいけないんだ! じゃあ聞くが、キミは何対何の試合になると思うんだ?」
「まぁ相手が西口だから点を取っても2点まででしょう。勝つなら2対1か2対0です」
 今度もまた直立不動のまま尾花は答えた。不躾な質問を受け、王は明らかに苛立っていた。

 さて「仕事のできる男」は、ここからが違う。
「監督、聞いてください。監督が1対0の試合を想定しているのか、あるいは2対1なのか3対2なのかによって、ピッチャー交代は違ってくるんです。こちらは、あらかじめピッチャーを用意しておかなければならない立場です。それが分からなければ、この仕事を果たすことはできません」
 黙って聞いていた王は「そうか、わかった」と言って、その場を収め、以降、全試合、ゲーム前に尾花と2人きりでスコアのシミュレーションを行ったという。

 その甲斐あってダイエーは九州に移転して初めての優勝を遂げる。
 ダイエーに尾花あり――。投手コーチとしての名声はいよいよ不動のものとなった。
 もちろん、それを快く思わない勢力もあった。あるコーチとベンチで掴み合い寸前までいったこともある。
「今思えばナマイキだったと思いますよ。(コーチ陣では)一番年下なのに言いたいことを言うから。
 でも僕は純粋に勝ちたいという思いは誰にも負けなかった。だから周りから何を言われても気にならなかった。僕は常に正論を口にしてきたつもりです、どこの球団でもそれを曲げることはなかった」

 中心なき組織は機能しない――。これは“野球の師”野村の口癖でもある。
 ダイエー時代、尾花はひとりのピッチャーを投手陣のリーダーに指名した。00年秋、肺がんのため他界した藤井将雄である。

 コーチ就任と同時に尾花は投手陣を集め、こう言い切った。
「このメンバーで優勝しよう」
 反応は鈍かった。ただひとり食いついてきたのが藤井だった。後日、周りに誰もいないのを確認して藤井は訊ねた。
「尾花さん、このチームに来た時に優勝できると言いましたよね。本当にそう思っていますか?」
 尾花はその質問を待っていた
「できる。オレを信じてくれ。その代わりオレの言うことを聞いてくれ」

 尾花の述懐。
「当時のホークスは実績のある工藤公康と他のピッチャーとでは差があり過ぎた。投手陣をまとめるとすれば、工藤にもはっきりモノが言える選手じゃなければ務まらない。それができるのは藤井だけでした。
 それで僕は彼にこう頼んだ。“このチームで投手をまとめられるのはオマエしかいない。オマエがオレの代わりに言ってくれ”と……」
 99年の日本一は藤井の活躍抜きには考えられない。彼はセットアッパーとして大車輪の活躍をし、最多ホールドのタイトルまで獲得した。

「あれは日本シリーズの前ですね。変な咳をしていたので、“オマエ、調べてもらえよ”と言ったのは……」
 享年31。苦労をともにした“戦友”は玄界灘に面した唐津で静かに眠る。
 尾花は毎年、墓参りを欠かさない。墓前でこう報告するつもりだ。
「将雄、監督になっちゃったよ。見ていてくれな」
「情に溺れない男」の目が、この話の時ばかりは真っ赤に染まった。

 52歳。老いてはいないが、若くもない。勝負するにはいい年齢だ。最下位球団の再建。「仕事のできる男」は、この難事業にどう挑むのか。「叩き上げ」にしか、できない野球が必ずある。

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<この原稿は2009年12月19日号『週刊現代』に掲載されたものです>