記録よりも記憶に残る選手。先に金森をこう評したが、実は記録の面でも彼は球史に名を残している。
 死球王――。連盟表彰の対象ではないが、84年と85年の2度、リーグで誰よりも多くデッドボールを受けているのだ。ぶつけられた際、ギャーと悲鳴を発して身をよじるシーンはスポーツニュースでも“珍プレー”としてしばしば取り上げられた。
(写真:「せめてプロに入った以上は基本を分かってほしい」。身振り手振りを使った指導は明解だ)
 現役時代の武勇伝かと思いきや、金森は「打てないから当たってでも塁に出たんでしょう」と冷ややかに若き日を振り返った。
「そもそもクロスで踏み込んでいくようなタイプに、いいバッターはなんていないですよ。正しく打てれば、そんなに当たる必要なんかないんです。
 だから僕は死球を売り物にするようなバッターは育てたくないですね。当時の僕には自信がなかった。塁に出られるだけでよしとしていた。もう毎日が必死でしたから……」

 西武に入ったばかりの頃、金森は当時の監督・広岡達朗に徹底して基礎を叩きこまれた。練習の厳しさはアマチュアの比ではなかった。
 ある時、移動の飛行機が大揺れに揺れた。誰もが青い顔をしている中、ひとり金森だけが平然としている。
「怖くないのか?」
 同僚が訊くと、金森はサラッと答えたという。
「飛行機が落ちてくれたほうがよっぽど楽だよ。もう、あれだけ苦しい練習をしなくても済むんだからな」

 88年途中に阪神へ。92年には戦力外となったが、ヤクルトに拾われた。15年間の現役生活でバッティングのコツらしきものを掴んだのは皮肉にも晩年のことだった。
「当時、僕はヤクルトにいた。巨人の抑えの石毛博史とか速いボールを投げるピッチャーがいて、彼らのストレートを想定して室内でマシンを打っていた。速いボールなのでバットを短く持って打った。すると、力の伝え方がよかったのでしょう。打球が思った以上に伸びていった。“あっ、これなんや”と。
 つまりバットを短く持つとか長く持つとかいうのは飛距離には関係がない。だって長嶋茂雄さんも王貞治さんも野村克也さんも、現役時代をバットを短く持っているんです。結局、体から手が離れてはダメなんです。体に近いところで腕が伸びきらないように打つと力が正確に伝わる。腕相撲だってそうじゃないですか。腕を体から離さないほうが強いでしょう。そのことがやっとわかってきた。でも、もう遅かった(笑)」

 長い回り道を経て、プロフェッショナル・コーチとしての今の金森がある。彼は過去をいたずらに美化しない。未来に向けて、どこまでも貪欲である。進化し続ける打撃論。真理を求め続ける旅に終わりはない。

 人間味のある男でもある。
 少なくとも私が知る限りにおいて現役医学生の身分のまま、プロ野球の世界に身を投じたのは日本では彼ひとりだ。
 高田泰史、25歳。現在は金沢大学附属病院の研修医である。今から3年前、彼はプロ野球独立リーグ「北信越BCリーグ」(当時)の石川ミリオンスターズに所属するピッチャーだった。大学を休学し、未知の世界に飛び込んだ。

「ウチに来てくれるか?」
「僕でいいんですか?」
「是非来てくれ!」
 高田の背中を押したのが、ミリオンスターズの初代監督に就任したばかりの金森だった。福岡ソフトバンクとのコーチ契約が終了した直後、故郷に新しくできる独立リーグからの依頼を受け、指揮を執ることになったのだ。
 独立リーグといえども立派なプロ野球である。選手のほとんどはNPB(日本プロ野球組織)入りを目指している。趣味でやる野球とは訳が違う。
(写真:石川では現楽天の内村賢介を育てた)

「先発としては力不足だがリリーフとしては使える」
 そう判断した金森は高田をクローザーに抜擢した。もちろん高田に抑えという専門職の経験はない。失敗してベンチに戻ると、金森から声をかけられた。
「抑えは気持ちの切り替えが大事だ。明日もいくぞ」

 このシーズン、高田は1勝2敗16セーブの成績でミリオンスターズの初優勝に貢献した。優勝を決めた富山サンダーバーズ戦では16−5と大差がついていたにもかかわらず、締めくくりのマウンドを託された。
「最後はオマエが締めてくれよ」
 そう言ってボールを渡された。

「金森さんは優しくて厳しい人でしたね」
 しみじみと高田は語る。
「2年目を迎えるにあたり、監督から“残ってほしい”と言われた時にはうれしかった。しかし、1年間、独立リーグでプレーしてNPBは自分には無理な世界だとわかりました。
 退団を申し出ると監督から“頑張れよ”と言って、握手を求められ、皆に胴上げまでしてもらった。金森さんにはプロの厳しさを教わりました。ベンチの中での鬼気迫る表情は未だに忘れられません」
 この春、晴れて国家試験に合格した高田は整形外科医の道を歩み始めた。

 故郷・金沢での3年間の監督生活で金森は野球の原点を再確認した。
「彼らの毎日の練習を思い出すと、本当に泣けてきますよ。練習場もない、悪い環境の中でも泣き言ひとつ言わずに頑張ってくれた。よく辛抱してくれたなぁと思いますよ。
 金沢を去る時には選手たちのほうが泣いてくれた。僕は幸せ者ですよ。独立リーグでの3年間は僕にとって本当に大きな財産となっています」

 自他ともに認める野球のムシ。朝、テレビでメジャーリーグの中継を見て球場にやってくる。試合が終わり、千葉市内の単身赴任先の部屋に戻ると、今度は球団スタッフのつくったDVDに目を凝らす。
「選手に“反省が大事だ、予習復習を欠かすな”と言っている手前、まず自らが率先してやらなきゃダメでしょう」
 そうは言いながらも顔は笑っている。この人、心底、野球が好きなのだ。

 最後に訊いた。
――金森さん、もし世の中から野球がなくなったら、どうしますか?
「もう何していいかわからないですね。目眩がしますよ」
 そして、こう付け加えた。
「今は毎日が楽しくて仕方がない。だから1日がすごく短く感じられるんです」
 仕事ができる男は、いい顔をしている。53歳。今が働き盛りである。

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<この原稿は2010年5月29日号『週刊現代』に掲載されたものです>