サッカー元日本代表DFで松本山雅FCに所属していた松田直樹選手が4日、長野県松本市内の病院で死去した。34歳だった。松田選手は2日午前の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、心肺停止の状態で病院に搬送されていた。病院では人工心肺装置をつけて血液循環を維持していたが、意識は回復せず、そのまま還らぬ人となった。
(写真:2年前にはこれまでの半生を語った『闘争人―松田直樹物語』(三栄書房、二宮寿朗著)を出版していた)
 松田選手は前橋育英高から1995年に横浜マリノス(当時)入り。闘争心あふれるプレーで開幕スタメンを勝ち取ると、1年目から33試合に出場。96年にはアトランタ五輪の日本代表に選出され、“マイアミの奇跡”と呼ばれたブラジル戦でもDFとして劇的勝利に貢献した。00年よりA代表にも選出されると、フィリップ・トルシエ監督が提唱した“フラット3”の一翼を担い、不動の右サイドバックに。02年の日韓W杯で日本は初の決勝トーナメント進出を果たした。

 昨季まで16年間、横浜一筋でプレーし、サポーターの人気は絶大だった。松田選手がクラブから戦力外通告を受けた際には一部のサポーターが説明を求めてクラブハウスに押しかけるほどの騒ぎになった。今季からはJFLの松本山雅FCへ移籍。経験豊富なベテランとしてクラブのJ2昇格へ懸命のプレーを続けていた矢先の悲劇だった。

 松田選手死去のニュースにサッカー関係者は皆、悲しみに包まれた。この日、日本サッカー協会では10日に行われるキリンチャレンジカップ2011(対韓国代表戦)の日本代表メンバーの発表会見が開かれたが、その冒頭、原博実技術委員長が「残念な連絡が入りました」と松田選手の死去を報告。「相手チーム(浦和、FC東京)の監督として何回も戦ってきて、彼の存在感の大きさは相手チームであったからこそよく分かっていたつもり。それだけに今でも信じられない」と目をうるませながら語った。

 日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督は「直接知り合うことはなかったが、昨年のJリーグを見ていて素晴らしいプレーヤーだと分かっていた」と故人を悼み、U-22代表の関塚隆監督も「彼はクラブ、日本代表を牽引してきた選手。本当に残念」と早すぎる死を悔やんでいた。またJリーグの大東和美チェアマンは「1995年から16シーズンという長きにわたり、Jリーグを代表するプレーヤーとして活躍された松田直樹選手の突然の悲報に接し、言葉を失っております」とのコメントを発表。リーグでは8月5日〜7日に実施されるJ1、J2の公式戦全試合でキックオフ前の黙祷などの追悼セレモニーを実施する。