昨夏、ロンドンパラリンピックに出場し、100メートル、200メートルで決勝進出を果たした高桑早生(慶応大)。大観衆の中、初めてパラリンピックの舞台を走り抜けた喜び、そして痛感した世界のトップ選手たちとの差……。ロンドンパラリンピックは彼女に、計り知れないほど大きな財産をもたらした。あれから約半年。高桑の練習を訪れると、そこには既に2016年リオデジャネイロに向け、1歩も2歩も前進している彼女がいた。
 2月23日、高桑が通う慶應大学日吉キャンパスの陸上競技場を訪れた。
「こんにちは。お久しぶりです」
ロンドンパラリンピック後、初めて見た高桑の表情には、充実感が漂っていた。
「ロンドンのレースは、高桑にとっても僕にとっても、当時の彼女のベストレースだったことは間違いありません。でも、今の彼女はその上をいっていますから、既にロンドンでのレースがベストではなくなっているんです」
 10年から彼女を指導する高野大樹コーチから、前もってこんな言葉を聞いていたことも影響していたのだろう。最初の何気ない挨拶で、彼女の充実ぶりはすぐにわかった。そして、その要因は彼女の “進化”にあった。

 ストライドにあった世界との差

(写真:ロンドンパラリンピック前、スタート時の1歩目を強く踏み出す練習を繰り返していた)
 高桑がロンドンパラリンピック前に強化、修正してきたことは大きく分けて2つある。ひとつはスタート時の1歩目だ。義足側でしっかりと強く大きく踏み出す練習を重ねてきた彼女は、ロンドンでも世界のトップランナーたちとまったくひけをとらなかった。いや、もしかしたらスタートだけでいえば、既に世界トップと言っても過言ではないだろう。実際、パラリンピックでは100メートル、200メートルともにスタートの1歩目では、表彰台を狙える位置にいたのだ。

 だが、2歩、3歩……と進むに従って、彼女は後方へと下がっていった。つまり、2歩目以降に世界のトップランナーたちとの差があるのだ。高野コーチに訊くと、足の回転スピードに関しては金メダリストと高桑との差はほとんどないのだという。では、どこに違いが生じているのか。それは1歩1歩のストライドの幅にあった。

 ロンドン前、スタートのほかにトレーニングをしてきたのは、まさにその部分に直結する足の動きの修正であった。だが、完全には身につけることができないまま、本番を迎えていた。逆に言えば、高桑は進化の途中でロンドンに臨んだにもかかわらず、目標だったファイナリストとなったのだ。それは、彼女のポテンシャルの高さを示すことにもなったことは言を俟たない。

 一方、高野コーチにとっても足の動きについての修正がロンドンまでに間に合わないことは、想定内であった。
「走りのひとつひとつを修正するには、本当に時間がかかるんです。それをロンドンまでに、とは最初から思っていませんでした。彼女にも、それほど強く意識はさせていなかったんです。だから、ロンドンではスタートがきっちりとできていただけで、OKでした。彼女の力をほぼすべて出し切ってくれたと思っています」

 回転より歩幅に求めたワケ

 ロンドンから帰国後まもなく、高桑と高野コーチは反省会を行なったという。もちろん、リオに向けてのスタートを切るためだ。高野コーチは前もって100メートルと200メートルの予選、決勝の全4本のレースを細かく分析していた。高桑と同じレースを走った全選手の歩数をカウントし、各選手のストライドの長さを計算して高桑と比較してみたのだという。その結果、例えば100メートルの金メダリストとでは、最初の10メートルで約50〜60センチも差ができていた。

「スタートの1歩目では、高桑の方が先に出ているんです。ところが、10メートルで50センチほど、優勝した選手が前にいる状態になっている。2人の地面に足をつくタイミングはほとんど変わりませんから、足の回転スピードに差はありません。ということは、単純に言えば歩幅の差を縮めれば金メダリストに追いつくということです」
 高野コーチの分析によれば、高桑と金メダリストとの歩幅差は、約20センチ。この距離を少しでも縮めていくことが、高桑に課せられた最重要課題とされた。

 とはいえ、20センチの差を縮めるのは容易ではないはずだ。2人の歩幅差に驚きを隠せないでいる私に、高野コーチはこう続けた。
「でも、足の回転だけを見れば、メダリストよりも高桑の方が少しだけ速いんですよ」
 では、20センチという歩幅の差を縮めるよりも、強みとなり得る足の回転スピードをさらに上げるトレーニングの方が優先順位としては先ではないのか。そんな疑問を高野コーチにぶつけると、次のように説明してくれた。

「確かにいずれはやらなければいけないと思っています。でも、今はその時期ではないかなと。実は回転スピードというのはトレーニングをすれば、意外にも簡単に速くなるものなんです。ですから、タイムを縮めるのに最も手っ取り早いのは、回転スピードを上げることなんです。やり方としては、1歩の歩幅を現在よりも短めにしてダッシュをするんです。これを繰り返すことによって、速い足の動きができるようになる。でも、それは同時にケガへのリスクも高くなるんです。なぜなら、走るという行為で最も筋肉に負荷がかかるのは、前足が空中から地面に接地した瞬間、そして後ろ足を地面から空中へと蹴り上げる瞬間なんです。回転スピードを上げるということは、その動きの切り替えしを速く、そして多くしなければいけないということ。それを特に今のような寒い時期にするというのは、ケガへのリスクが高くなってしまう。それよりも今は、ゆっくりでいいから大きな動きの感覚を身につけさせることが重要だと考えています」

 進化に伴う自己ベストの予感

 さて、実際に高桑のトレーニングを見てみると、足の動きや感覚をひとつひとつ意識させ、頭と身体に染みこませようとしていることが見てとれた。例えば3歩目のところにマーカーを置き、「1、2、3」の「3」で強く地面を押し出すようにして走る。これは「地面を押す感じを意識させることで、1回のキックで大きく前に進む感覚を身に付けさせるものだ。最終的には強く地面を押し出す感覚ではなく、しっかりと地面をとらえながらも、軽くタッチするような接地感覚を身に付け、バネのある軽快な走りにつながっていくのだという。

 さらにマーカーを歩幅に合わせて置き、その間を走らせる。傍目からは何気ない練習メニューのように映る。果たしてこれはどんな意味をもっているのか。すると、高桑と高野コーチからこんな会話が聞こえてきた。
「どんな感じ?」
「遠い感じはもうないですね」
「うん、そうだね。見ていても、無理なく走れているよ」
 実はこの練習にこそ、高桑の進化があったのだ。
(写真:均等にマーカーを配置し、歩幅の感覚を身に付ける練習)

 ロンドンパラリンピック当時、高桑の歩幅は163センチだった。しかし、現在は180センチ間隔に置いたマーカーの間を、無理なく走ることができている。つまり、金メダリストとほぼ同じ歩幅となっているのだ。聞けば、ロンドン前の練習では170センチでも、足を伸ばすことを強く意識して、やっとやっと走れるくらいだったという。それが今では180センチという歩幅を難なくクリアしている。その要因はどこにあるのか。高野コーチから挙げられたのは、上半身と下半身の動きだ。

「足の動きに関して言えば、地面に足を着いてから、すぐに蹴り上げるのではなく、もう一方の足の腰の部分が前に移動してから、蹴り上げる。こうした腰の移動を意識することで、滞空時間が長くなり、その結果、歩幅が広がっているんです。一方、彼女の走りの特徴として腕の振りの力強さが挙げられるのですが、これまでは腕の動きにつられて上半身もねじれていたんです。これでは力が逃げてしまいます。そのねじれの原因のひとつが、肩甲骨まわりの筋肉の硬さにありました。ロンドンの後、彼女に懸垂をやらせてみたんです。棒を顔の前ではなく、後ろにして自分の身体を持ち上げるには、肩甲骨まわりの筋肉を中心に寄せるようにギュッと締めることが必要です。ところが、彼女は1回もできなかった。つまり、その部分の筋肉が使えていないということです。そこで昨年12月からは、肩甲骨まわりの筋肉の柔軟をやらせています。その結果、以前よりは上半身のねじれが減りました。本人も『楽に走れるようになった』と言っていますので、これも要因のひとつだと考えられます」

 現在、高桑が目指しているのは4月20日に熊本で開催される「チャレンジ陸上競技大会」だ。それに向けて、4月6日には今季初レースとなる「JDTオープンフェスタ」に出場する。高桑は11年9月のジャパンパラリンピックで初めて実戦の場で13秒台(13秒96)を叩き出し、中西麻耶がもつ日本記録まで、わずか0.12秒と迫った。しかし、それは高野コーチに言わせれば「出した」のではなく「出てしまった」に過ぎないという。その証拠に、彼女はそれ以降、一度も13秒台を出してはいない。

 だが、次に13秒台を出した時、それは間違いなく彼女の実力である。おそらくその後、13秒台は彼女にとって当然のタイムとなることだろう。とはいえ、「タイムよりも重要なのは内容」と高野コーチ。今の時期に細かな動きを確認し、しっかりとフォームを固めることこそが、今後の伸びにつながるからだ。と同時に「これまでの練習の成果が出せれば、自己ベストは十分に狙える」という意味も含まれているのだろう。

「次回はいつにしようかな……」
 スケジュール帳を見ながら、次の取材のタイミングを悩んでいる私に、高桑は笑顔でこう言った。
「オススメは4月のチャレンジ陸上です!」
 おそらく彼女自身、そこで自分がどんな走りをするのか、楽しみで仕方ないのだろう。4月20日、熊本の地で彼女はさらなる進化した姿を見せてくれるに違いない。そして、それがリオへの第一歩となるはずだ。

(文・写真/斎藤寿子)