2007年8月、竹内智香は拠点を日本からスイスへ移した。竹内の熱意により、スイス代表チームへの帯同を認められたのだ。だが、2カ月間という期間限定だった。「スイスチームの人たちに、必要としてもらえるようになろうと思いました。言葉は通じませんでしたが、ムードメーカーになるように徹しましたし、チームが要求するものには応えようと思ってやっていましたね」
(写真: Photo By ORIBER KRAUS)
 チームは結果が出ない時、当然雰囲気も暗くなりがちだ。そんな状況下でも、竹内は明るく振る舞った。「チームを引っ張れるような存在になろうと思っていた。そういう意味で気持ちの波を1シーズン、絶対に見せないようにしたんです」
 自らのレースが終われば、負けた悔しさを押し殺し、すぐチームの残っている選手のサポートをした。ウェアを卸したり、ドリンクを渡したりと雑務もこなした。

 こうした竹内のアピールは実り、当初、2カ月と言われた帯同期間も10月、11月と時が経っても、チームに残ることを許された。そしてシーズンオフには、チームでのミーティングの結果、「来シーズンも残っていい」となった。正式にチームの一員として認められ、その後も活動を共にできることになったのだ。

「最初は怖かった」という印象のシモンとフィリップのショッホ兄弟とも、2シーズン目から親交を深めていった。兄シモンはトリノ五輪銀メダリストで07年の世界選手権では金メダルを獲得している。一方、弟フィリップはソルトレイクシティ、トリノと五輪を連覇していた。世界のトップボーダーと、同じ環境で過ごせることは竹内にとって大きな経験となった。2人とは今では「親友と呼べる存在」までになったという。「競技者としても、プライベートでも、全てにおいて尊敬できる」と絶大な信頼を寄せている。「2人といると悩みを悩みと感じないことがほとんど。2人は常に前向きに考えることや、苦しいことがあった時の対処法などを教えてくれました。だから、私はそれほど悩むことはありませんでした」

 最高の環境でもまれた竹内。08-09シーズンは飛躍のシーズンとなった。W杯では決勝トーナメント進出の常連になり、表彰台にも4度上った。09年の世界選手権ではパラレル大回転で自己最高の4位に入るなど、このシーズンは同種目でW杯総合3位に輝いた。世界トップクラスへと仲間入りを果たしたのだった。

 涙雨のバンクーバー

 そして迎えた10年のバンクーバー五輪。前シーズンの活躍もあり、竹内はメダル獲得を期待されていた。彼女もそれに応えるように「表彰台の一番高いところに上がりたい」と記者会見で意気込んだ。

 2月27日、予選当日のバンクーバーの空は生憎の雨模様だった。振り続ける雨により、視界は悪く、グラウンドコンディションも良くなかった。竹内は「攻めることよりも予選を通過することを重視しました」と無難な滑りを選択した。1本目を41秒61、2本目は42秒81でまとめた。竹内らしいアグレッシブな滑りではなかったが、作戦通り予選を全体10位で通過した。

 決勝トーナメントに入っても天候は回復しなかった。竹内はオーストリアのクラウディア・リゲラーと対戦した。予選はタイムアタック方式だが、トーナメントに入れば1対1で2本滑るバトル形式となる。

 竹内は1本目をリゲラーより0秒79遅れて滑り終えた。1本目の差の分だけ、スタートを遅らせるため、2本目で先にゴールした方が勝者となる。リゲラーを最初から追いかける展開となった2本目。竹内は積極的なアタックで加速した。コース中盤に入り、12本目、13本目と旗門を通過するたび、その差は縮まっていく。14本目の旗門を超えたあたりで、ついにリゲラーを逆転した。

 しかし、直後に竹内はバランスを崩し、大きく進路が逸れた。そのままコースサイドのネットに突っ込む。この瞬間、彼女の準々決勝進出の可能性は潰えた――。1回戦敗退で13位。ビハインドをはね返すために攻めた結果とはいえ、4年前のトリノ五輪よりも順位は下がり、メダル獲得も叶わなかった。五輪の舞台で竹内は再び涙で頬を濡らした。

 竹内は当時の思いを、こう振り返る。「メダルを獲ることよりも、“日本のやり方は間違っている”との思いの方が強かったですね。日本の環境で、私はなかなか結果が出なくて、スイスに行ってから成績を残せるようになった。スイスのトップチームのノウハウ、組織の作り方やコーチの在り方を経験した。それは日本にないものばかりでした。だから自分が結果を残すことで、日本の環境が良くなればと思っていたんです。だから、日本の組織が変わって欲しいという思いがほとんどを占めていました」

 つまり、敗因は「間違った考え方でオリンピックに臨んでいた」ことにあったのだ。「他の国のほとんどの選手たちが、自国に誇りを持って、戦っていた。でも私は誰かに純粋に勝つことよりも、日の丸を背負いながら日本に対して“見せつけよう”という思いでオリンピックに臨んでいた。そんなことで、勝てるわけはなかったんです」

 経験を武器にソチへ

 11-12シーズンからは更なる成長を目指すため、スイスチームを離れ、新たなコーチと契約した。オーストリア代表の元ヘッドコーチ、フェリックス・シュタドラー。多くのメダリストを育て上げた名指導者だ。彼の指示により拠点も日本に戻した。それまでは「コンマの差より、大差で勝ちたい」と語っていた竹内。彼に出会い、勝負に対する考え方も「どんな勝ち方でも勝ちは勝ち」へと変わっていた。シュタドラーコーチの助言によりフィジカル強化にも重点を置いた。他にも教わったことは多い。「速さだけではなく確実さとか、私の滑りの引き出しが増えたのはフェリックスのおかげです」

 そしてシュタドラーコーチの指導を受けて2年目に入ると、ついに竹内は初の栄冠を手にした。昨年12月、W杯参戦125回目にして初優勝を果たしたのだ。「故障明けでまったく練習できていない状態でのレースだったので、不安材料の方がほとんどだったんです。“勝てない”と弱気にもなっていたのですが、逆に“1本1本やれることをやろう”と割り切った末の優勝でした」

 本来は攻撃的な滑りを持ち味とする竹内だが、そのレースでは安全策をとった。それが功を奏した結果となった。「本当にコツコツと滑って、タイムをコンスタントに揃えていきました。攻めなくても、こういうパターンで勝てることを知れたのは良かったですね」
 新たなコーチと出会い、滑りの幅が広がった。この日は奇しくも竹内の誕生日。自らの優勝という最高のバースデープレゼントを手にした。

 3月の世界選手権では肺気胸のため、直前まで現地入りが出来ず、満足な練習を積めなかった。それでも竹内はパラレル大回転で8位、パラレル回転で7位に入った。結局、五輪のプレシーズンはW杯のパラレル大回転で08-09シーズン以来、2度目の種目別総合3位に輝いた。
「1回目の総合3位は、本当に調子が良く、レースの滑りも自分の中で完璧と思っていた中での成績でした。今回はケガなどのアクシデントが多いシーズンで、なかなか思うように練習をできない中での3位。そういう意味では4年前よりは、まだまだ自分の可能性を感じられる3位でしたね」

 刻一刻と近付くソチ五輪。出場を目指す竹内にとっても、モチベーションは高まっている。だが、そこに硬さは見られない。
「一番の強みは、過去に3回経験していることですね。ヨーロッパの強豪国では、26〜28歳ぐらいになって、やっと出られるほど選手層が厚い。ライバルのほとんどが1回目、2回目という中で、出場できれば私は4回目の経験なので。そういった意味では落ち着いていけると思いますし、あとはバンクーバーの時と違って、日本チームと、日本の人たちに支えられているという思いがある。気持ち的にはすごく楽ですね」

 竹内にはスノーボード・アルペンの第一人者として、競技を引っ張っていかなくてはいけないという自負もある。「まずはソチ五輪で結果を残し、少しでも日本での認知度を上げたいですね。それが次の世代に繋がっていけばいいなと考えています」。これまで積み上げてきた経験の結晶は、ソチの雪上でどんな輝きを見せるのか。日本人の誇りを胸に彼女は戦う。

(おわり)
(第8回は12月23日に更新します)

竹内智香(たけうち・ともか)プロフィール>
1983年12月21日、北海道生まれ。2歳からスキーを始め、12歳でスノーボードに出合う。14歳の時にスノーボード・アルペン競技を本格的に開始すると、16歳でナショナルチーム入りを果たす。18歳でソルトレイクシティ五輪のパラレル大回転に出場。04年のW杯札幌大会では、日本人初の表彰台となる3位に入る。トリノ五輪では9位と、入賞まであと一歩と迫った。09年の世界選手権では4位に入り、08-09シーズンはW杯パラレル大回転種目別総合3位。バンクーバー五輪はメダルを期待されたが13位に終わった。12-13シーズンではイタリア大会でW杯初勝利を収めるなど、2度目の総合3位に入った。4度目の五輪出場を目指すスノーボード・アルペン競技の第一人者。
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(競技写真提供:竹内智香)

(文/杉浦泰介)