昨夏、三澤拓はある手応えを感じ始めていた。8月に雪を求めて行ったニュージーランド遠征で数カ月ぶりに雪上を滑った三澤は、自分の変化にすぐに気付いた。「こういうことか……」。その手応えは、シーズンに入ると、結果として表れ始めた。昨年12月のノルアムカップ(北米カップ)で、三澤は大回転(GS)で優勝した。それは、2010年バンクーバーパラリンピック後、初めての国際舞台での表彰台だった。さらに、得意の回転(SL)では表彰台こそ逃したものの、2本目は同種目の世界トップ3がいる中で堂々の2番目のタイムを叩き出した。4年に1度の世界最高峰の舞台を迎える準備が、ようやく整いつつあることを三澤は実感していた。
 滑りを変えた左足の重要性

 3度目のパラリンピックとなるソチ大会前の最後のシーズンに向けて、昨オフ、三澤は新しい試みを始めた。専門トレーナーによるフィジカルトレーニングだ。もちろん、これまでもフィジカル強化には注力してきた。がたいのいい彼の身体を見れば、いかにウエイトトレーニングに勤しんできたかは一目でわかる。だが、それはあくまでも自己流だった。それを専門トレーナーとの協同作業によるトレーニングへと切り替えたのだ。そのきっかけは友人からの誘いだった。

「うちのジムに来て、トレーニングをやってみない?」
 昨年3月、シーズンを終えた三澤は、小学校時代の同級生とご飯を食べに行った。友人は都内のトレーニングジムでトレーナーをしている。そのため、世界を相手に戦っている三澤を以前から気にかけてくれていたという。しかし、個人トレーナーによるトレーニングともなると、それだけ費用もかかる。千葉でひとり暮らしをしている三澤にとって、都内へのジム通いは、そう簡単に返事ができるものではなかった。だが、三澤は友人の誘いを受けた。ソチに賭ける思いの強さが、三澤の背中を押したことは言うまでもない。こうして三澤は4月から週に1度、都内のジムへと通い始めた。

 体幹とともに、三澤が重点的に行なったのは、ある部分の意識づけだった。
「ここに力を入れてみようか」
 トレーナーからそう言われたのは、左足だった。それは三澤にとって、意外な部分だった。三澤は6歳の時に交通事故で左足を切断している。残っているのは、ヒザから上の約20センチほどだ。子どもの頃からスキーのみならず、野球やバドミントンなどスポーツをしてきた三澤だったが、これまで一度も左足を意識してプレーしたことはなかった。はじめは、どう力を入れたらいいのかもわからなかったという。

「トレーナーに、『右足の太腿を上げるように、左足も上げてみて』と言われてやってみたんです。そしたら、腰回りから臀部にかけてグッと力が入り、より体幹が締められた。左足に力を入れるだけで、これだけ違うんだ、と思いました。それからは、とにかく左足を意識することを重視してきました。例えば、フリーウエイトでのスクワットをするにしても、右足で屈伸をするわけですが、これまではルーズにしていた左足にも力を入れるんです。左足を意識するのとしないのとでは、体幹の締まり方や身体のバランスがまったく違う。そのことに初めて気づきました」

 トレーニングを初めて約4カ月後の8月、ニュージーランド遠征で、三澤はさらに左足の重要性を痛感した。体幹と左足を意識して滑ると、これまでにはなかった感覚があったのだ。
「ターンをした時がまるで違いました。これまでは、ガンッと雪面に当てて、ヨイショッという感じで力づくで滑っていた。でも、トレーニングと同じように、体幹と左足をきちんと意識して滑ると、キュッとエッジングして、その後もスムーズにシュンッという感じでスキーの板が走ったんです。この滑りをスタートからゴールまで無意識にできるくらいマスターできれば、得意のスラローム(回転)で金メダルに手が届くはずです」
 三澤の滑りは、今も進化の真っただ中だ。約1カ月後に迫った本番まで、新しい感覚をいかに染みこませることができるかが勝負となる。

 ケガから得た“学び”と“自信”

「ケガの功名」。三澤が、これまでまったく信じていなかったこの言葉の意味を理解したのは、ちょうど2年前のことだ。
「ラスト1本、行きます!」
 12年1月、W杯直前の練習でのことだった。勢いよく飛び出した三澤だったが、途中、雪上に倒れた。スキー板の先がポールの根元を直撃したのだ。強い衝撃を受けた右ヒザは骨折していた。三澤はその日から、リハビリ生活を余儀なくされた。練習ができなくなるほどの大ケガは、9歳から始まったスキー人生の中で初めてのことだった。

「それまで自分はスキーができなくなるほどの大ケガなんて、絶対にしないものだと信じて疑わなかったんです。だからケガをするリスクなんか、まったく考えずに、練習もガンガンやっていました」
 よくスポーツ選手が口にする「ケガをして強くなれた」「ケガから学ぶこともある」という言葉を、以前の三澤は信じようとはしなかった。「自分には関係ない」の一点張りだった。だが、右ヒザの骨折によって、三澤の考えは変わっていった。

 アルペンスキーという競技が、どれだけケガをするリスクが高いものかを認識した三澤は、それまで単にがむしゃらにやっていた練習も、その時の調子を見て調整するようになった。途中で引き上げる判断力と勇気も、アスリートには必要だということを知ったのだ。そして、雪上に立つことができなかった期間、身体を鍛えることに集中できたおかげで、三澤は体幹の重要性を再確認したという。そのことが、4月から通い始めたジムでの質の高いトレーニングにつながったと感じている。

「そのシーズンはW杯に出場できなくて悔しい思いをしましたが、ケガをしたことで学ぶことは多かった。あのケガは決してマイナスではありませんでした。逆に、ケガをしていなかったら、どうなっていたかわかりません。今ではそう思えるんです」

 そのケガで三澤が得たものはそれだけではなかった。実は診断の際、靭帯損傷も疑われていた。だが、幸いにも靭帯は無事だった。すると、医師はこう告げたという。
「右足、強いねぇ。普通だったら、靭帯が傷ついていてもおかしくないよ。きちんと鍛えてきたからだろうね」
 その時、三澤はこれまでやってきたトレーニングは間違いではなかったことを証明されたような気がしたという。ケガをしたことで“自信”も得たのである。

 夏場からのソチ対策

 昨年3月のW杯で、三澤はソチパラリンピックで使用されるコースを滑った。大雨が降ったことも影響し、雪質は「ひどかった」。正直、本番では「もっといい条件の雪で滑りたい」とは思っているが、湿気が多く含む雪質は、日本のゲレンデと似通っており、日本人にとってはそれほど不利には働かないのではないかと感じてもいる。とはいえ、滑りにくいことに変わりはない。果たして、勝負のポイントは何なのか。

「いかに身体のバランスをキープして滑ることができるか、が大事だと思います。ガチガチの雪であれば、スキー板の足のポジションが少しくらいずれても、しっかりとエッジングして、雪をしっかりと噛んでくれますが、湿気の多い雪面では、きちんといいポジションの上に乗っていないと力が伝わらず、エッジがひっかかってくれません。ちょっとしたブレが、大きなミスにつながるんです」

 そのため、雪面に対してダイレクトに力を伝えられるようにと、三澤は昨夏のトレーニングでは、右足の力を真上からバンッと地面に向かって真下に伝えるトレーニングも行なってきた。例えば、足を少し屈伸した状態から、ジャンプして着地する。その時、全体重が乗るように、しっかりと足で地面をとらえるのだ。こうしたトレーニングの成果を今、三澤は雪上で実感している。

「これまではターンをする時に、単に雪面からの反発をもらって、ある意味、跳ね返される力を利用して滑っていたんです。でも、今はグッと雪面をスキー板でとらえて、そこでためた力を利用してポンと蹴って加速させる。つまり、これまで跳ね返されていたのが、自分からしかけていけるようになった。そういう滑りができるようになったのは、体幹と左足を意識することで、上体がブレなくなったからこそでもある。すべては夏場のトレーニングのおかげなんです」

 4年前の忘れもの

 4年前、三澤は最も得意とする回転で、果たすことができなかったことがある。初めて出場した06年のトリノパラリンピックで5位入賞を果たした三澤は、その4年後のバンクーバーで金メダルを狙っていた。いや、確信していたと言っても過言ではなかった。「自分が世界の頂点をとる」。そう信じて疑わなかった。だが、リザルトに記されたのは「DNF」。「Did Not Finish」――1本目のゴール手前で転倒し、コースアウトしたのだ。

「バンクーバーの時は、変に余裕がありすぎました。『普通に滑れば、金メダルは獲れる』と軽く考えていたところがあったんです。スタートに立った時も、まったく緊張感はありませんでした。ところが、いざスタートすると、雨が降ってコースが荒れていたこともあって、スピードが出なかったんです。『あれ、おかしいな。もっと攻めなくちゃ』と思っていたら、逆にどんどん遅れていってしまって、結局ゴール直前で転倒という結果に終わりました」

 その4年前と今とでは、パラリンピックへの重みはまったく違うものになっているという。
「学生ではなく、社会人になったということもありますし、バンクーバー後のスタンディング(立位)クラスのレベルが急速に上がって、僕は今、“挑戦者”の身でもある。バンクーバーの時のような余裕はありません。でも、しっかりと自分のスキーをすれば、メダルに届くという手応えもつかんでいます。変に肩に力が入っているわけでもなく、気持ちの緩みもない。とてもいい緊張感の中で過ごすことができています」

 目指すは、得意の回転での金メダル。そして、バンクーバーでは味わうことのできなかった、ゴールする瞬間の達成感を8年ぶりに味わうことだ。果たしてソチの地で、三澤はどのような滑りを見せてくれるのか。さらなる道を切り“拓”くべく、3度目のパラリンピックに挑む。

三澤拓(みさわ・ひらく)
1987年7月12日、長野県生まれ。キッセイ薬品工業株式会社所属。6歳の時に交通事故で左足大腿部を切断。小学校、中学校では野球部に所属。9歳から始めたスキーでパラリンピックを目指し、高校はニュージーランドに留学した。2006年、初のパラリンピック出場となったトリノ大会では回転で5位入賞。10年バンクーバー大会ではスーパーコンビ6位入賞。3度目となるソチ大会では、得意の回転で金メダルを狙う。

(斎藤寿子)

(第15回は2月17日に更新します)