2006年トリノパラリンピックからの歳月は、どれほど長く、険しかったことだろう――4年前、東海将彦はバンクーバーパラリンピックの代表権を得ながら、直前の国内大会でもともと痛めていた左足を悪化させてしまった。当初はぎりぎりまで治療し、パラリンピック期間の後半に実施予定だった回転、大回転に出場することも考えていた。だが、悪天候により競技日程が大幅に変更され、技術系種目が前半に実施されることとなった。もう、出場を断念するほかなかった。と同時に、東海の頭は4年後へと切り替わったのである。バンクーバーに出場した仲間たちよりも一足先に、ソチへのスタートを切った。
 とはいえ、道のりは平たんではなかった。手術後も、左足の痛みとの闘いが続いた。10−11シーズンは、激痛でレースに出場するどころではなかったという。翌シーズンからレースに復帰した東海は、W杯で4位に入るなど、すぐに結果を残すようになった。だが、「結果と自分の感覚とはまったく一致しなかった」。以前のような滑りができなくなっていたのだ。その理由は、ケガをしたことによる身体の変化にあった。

「痛めた左足をかばうために、どうしても右足に体重が乗っていた。それで身体に歪みが生じてしまったんです」
 東海に必要とされたのは、以前の滑りに戻すことではなく、現在の身体に合った道具の調整や滑りを追求することだったのだ。その後の約2年間、東海はさまざまな工夫と調整を行なってきた。しかし、その一方で左足の痛みは激しさを増すばかりだった。手術で左足に入れられたボルトがスキーブーツの中で当たり、内出血を起こしていたのだ。

 白馬で上がった復活への狼煙

 そこで昨年5月、東海は一大決心をして手術に踏み切った。ソチパラリンピックまでは1年を切っており、ある意味大きな賭けだったに違いない。痛みを和らげるために、左足のボルト12本のうち8本を取り除いた。さらに、ふくらはぎ部分の骨に癒着していた筋肉を剥がし、左足首の可動域を拡大する手術も行なった。

 その成果が表れ始めたのは、今年1月のことだ。ノルアムカップ(北米選手権)で久々に優勝した東海は、「競技って、こんなに楽しかったんだ……」と勝つことの喜びを感じた。それはバンクーバーの1年前、09年2月に左足を骨折して以降、初めて沸き上がった感情だった。

 肝心の左足の痛みについても、変化があった。手術後は痛み止めを服用しながらの競技生活が続いていたが、副作用で胃が荒れてしまうため、1月からは徐々に薬の量を減らした。そして1月中旬に行なわれたW杯で、東海は思い切って、4戦中、最後の2戦では痛み止めを服用せずにレースに臨んだ。結果、ほとんど痛みは出なかった。まだ滑り自体は本調子ではなかったが、痛みへの不安はほぼ解消されたことに、東海は安堵した。

 競技の楽しさを思い出し、痛みへの不安が解消された東海。いよいよ復活の狼煙を上げたのは、2月に長野・白馬で行なわれたジャパンパラ競技大会だった。2日目の回転で、東海は優勝を果たした。同じソチパラリンピック代表で、国内では最大のライバルである三澤拓に1秒83差をつけての勝利だった。

「三澤選手とは1本目は0.4秒差だったんです。2本目、三澤選手が『攻めていきますから』と意気込んでスタートしたので、僕も負けられないと思いました。結果的に2本目でさらに差を広げることができた。久しぶりにレースのワクワク感を感じることができて、楽しかったです」
 5月に手術して以降、初めてほぼ全力を出し切ったレースだった。ようやく結果と自らの感覚とを一致させることができた東海は、ソチへの手応えを感じていた。

 痛感したパラリンピックの偉大さ

「8、9割の力を出せば、勝てるだろう」
 8年前、東海はそんな気持ちで初めてのパラリンピック(トリノ)に臨んだ。直前のW杯では回転で優勝、大回転で2位に入り、調子はすこぶる良かった。だが、4年に一度の大舞台はそれほど甘い世界ではなかった。

 東海は普段、世界選手権やW杯などの国際大会でも、ほとんど緊張することはない。ところが、パラリンピックでは違った。
「選手の顔ぶれは、W杯などと同じメンバーだというのに、漂っている空気はまるで別ものでした。それに、観客の数もまったく違った。すごい大歓声で、驚きました」

 1種目目の滑降は、最も危険を伴う種目であったこともあり、スタート時の東海はそれまで経験したことのない緊張感に襲われていた。
「頭が真っ白まではいかなくても、いつものように冷静ではいられませんでした。『これがパラリンピックか』ということを痛感させられました」
 それでも7位入賞を果たした東海は、さらに2種目目のスーパー大回転でも5位入賞を果たした。そして3種目目の大回転では銀メダルを獲得。同種目のスタンディング(立位)では、日本人初の快挙だった

 パラリンピック独特の空気には慣れることはできなかったものの、滑り自体はやはり好調だった。そうして迎えた最終日、最も得意とする回転に臨んだ。東海の戦略は1本目は「トップから0.5秒差以内の5位以内につけ、2本目で勝負」というものだった。
「1本目からトップに立ってしまうと、2本目で守りに入ってしまうと思ったんです。普段のW杯でも、1本目よりも2本目の方がいいタイムが出ていたので、いつもと同じ流れにしたいなと。だから抑えたわけではありませんが、1本目から行き過ぎてしまわないようにはしました」

 果たして、1本目はトップから0.5秒差での3位につけた。思い描いていたとおりの結果に、東海は金メダルを確信した。
「勝つから!」
 応援に駆けつけていた当時のマネージャーに勝利宣言をし、意気揚々とスタート地点へと上がって行った。

 今も残る8年前の後悔

 2本の合計タイムで競う大回転は、2本目は1本目のタイムが遅い選手から順にスタートしていく。1本目で4位につけ、東海のひとつ前にスタートしたのは、当時世界最強と謳われたドイツのゲルト・シェーンフェルダー。彼は10年バンクーバーまで6大会連続でパラリンピックに出場し、歴代最多の通算22個のメダルを獲得した“レジェンド”だ。

 シェーンフェルダーがスタートしてしばらくすると、ゴール付近から大歓声が聞こえてきた。好タイムが出たことは、容易に想像ができた。東海の肩に自然と力が入った。
「行くしかない」
 そんな気持ちでスタートした東海だったが、いつもとは何かが違うと感じていた。案の定、序盤からターンのタイミングに少しズレが生じていた。立て直すことができないまま、最後の急斜面にさしかかった時、視線にゴールラインが入った。その瞬間、東海の滑りは“攻め”から“守り”に転じた。

「スタート前は、“コースアウトするか、トップになるか”というくらい、リスクを負ってでも攻めていこうと思っていました。でも、最後の急斜面で、ふと“ゴールしよう”という気持ちが芽生えてしまった。アウトせずにゴールさえすれば、メダルは獲れるだろうという計算が働いたんです」
 その結果、東海は4位に転落。銅メダルを獲得したのは、シェーンフェルダーだった。

「トリノで一番印象深く残っているのは、銀メダルを獲った大回転よりも、メダルを逃した回転なんです。もっと力を出すことができたはずなのに、最後の最後に自分で抑えてしまった。今でも悔いが残っています。だから、今回は絶対に全力を出し切ってゴールします」
 バンクーバーではかなわなかったトリノでの雪辱を、東海はソチの地で果たすつもりだ。

東海将彦(とうかい・まさひこ)
1973年11月13日、東京都生まれ。エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社avex challenged athletes所属。スキーでオリンピックを目指し、高校、大学と米国に留学。大学卒業後は帰国し、大学のスキー部のコーチを務めながら、競技生活を続けた。初めて全日本選手権の出場権を得た2001年、大学生の指導中に事故で脊髄を損傷し、両下肢機能障害を負う。退院後に知ったパラリンピックを目指し、02年から国内外の大会に出場するようになる。04年トリノパラリンピックでは大回転で銀メダルを獲得。10年バンクーバーパラリンピックは代表入りも、直前のケガで出場辞退を余儀なくされた。

(文・斎藤寿子)