急性脳梗塞で倒れ、現在も入院中のサッカー日本代表監督イビチャ・オシムの後任として、元代表監督の岡田武史が正式に就任した。


 就任記者会見で「人もボールも動くサッカーは変わらない」とオシムスタイルの継続をアピールした。その一方で「オシムさんのサッカーはオシムさん以外にできない」とも。裏を返せば「僕のサッカーは僕にしかできない」ということだろう。指揮官としての岡田の自信がこのコメントには凝縮されていた。

 今から10年前のことだ。
 カザフスタン・アルマトゥイのアンカラホテル。
 日本代表は後半ロスタイムに同点ゴールを許し、みすみす2ポイント(勝ち点3、引き分け1)を失った。これによりフランス行きには黄信号が灯った。

「もう決断するしかないでしょう」
 強化委員長の大仁邦弥と委員の今西和男が協会副会長の川淵三郎の部屋を訪ねた。ふたりが日本サッカー協会会長の長沼健に会う前に川淵を訪ねたのは、川淵が強化担当の理事も兼ねていたためである。

「この悪い流れを変えるために、監督には辞めてもらうしかない」
 単刀直入に大仁が切り出すと、川淵は深くうなずいた。電話のベルが鳴り、川淵が受話器を取ると、長沼からだった。川淵が一部始終を説明し、長沼も部屋に合流した。そこで加茂周の監督解任と岡田武史コーチの監督昇格がほぼ決定した。

「腹をくくってくれ」
 岡田を呼び出し、大仁はそう告げた。
「考える時間を与えてほしい」
 岡田は一度、態度を保留したが「我々にはもう選択の余地がない」と強く迫ると「仕方がありません」と返事した。

「ただ、ひとつ条件があります。加茂さんの了解だけは取りつけてください」

 続いて長沼と大仁は加茂を呼んだ。
 加茂の後ろ盾である長沼は当初、強化委員会からの更迭要求に対し「それはかわいそうだ。辞任でいいじゃないか」と温情を示したが、大仁が「いや、それでは困ります。そんんな(なあなあな)ことをしていたんでは協会全体が世間から笑われてしまいます」と突き返すと、長沼は「やむをえない」とあっさり受け入れた。

 加茂が部屋に入る前に川淵は退席した。小倉純二団長と今西のふたりは、所用で日本大使館に出向いた。
「残念だが、キミにやめてもらうことになった」
 長沼が短く告げると、加茂は覚悟していたのか「会長に言われたら仕方ないですね」とつぶやいた。

 この後、加茂と岡田は酒をくみかわしながら、2人だけで話し合いの時間を持った。
「岡ちゃん、悪いけど後は頼むな」
 加茂がそう言って岡田の肩を叩いた時、時計の針は深夜の2時を回っていた。

 ジョホールバルで岡田が歓喜の絶頂にいたのは、この1ヶ月後のことだ。
「人生万事塞翁が馬」
 岡田がこの言葉を好んで使うようになったのは、普通の人間が一生かかってもできないような経験を、短期間で積むはめになってしまうからだろう。
 10年前と決定的に違うのは、岡田に指揮官として必要な経験が加わったことである。横浜F・マリノスの監督として2度もシーズン王者に輝いた。

 だから本人はこう語ったのだ。
「今まで日本代表、札幌、横浜とうまくいってない状況で監督になった。今回は決してうまくいってなくはないチームに行く。そういう意味で自分の色をグッと出して引っ張っていくのは得策ではない」
――10年前との違いは?
「一番の違いは10年前から10年経ったこと。サッカーを取り巻く環境は大きく変わった。年を取って人間が丸くなったので、昔ほど皆さんに辛く当たることはないと思う」

 自分の色を抑えてオシム流を引き継ぐと明言したのはそちらの方が好結果をもたらすと判断したからだろう。このあたりにリアリストの一面を垣間見ることができる。
 結局のところ、誰がバトンを受け取っても、引き継ぐところは引き継ぐ、変えるところは変えていく。基本的にはそうなるのではないか。

 静かな船出だが、嵐の予兆を感じるのは私だけか。

(この原稿は『週刊漫画ゴラク』2008年1月4日号に掲載されました)


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