連日、熱い戦いが繰り広げられている北京五輪。みなさんもそうでしょうが、一喜一憂しながらテレビの前で観戦しています。一番気になったのはやはりサッカー。男子は残念な結果に終わりましたが、女子は4位と、もう一歩でメダルに手が届くところまで健闘しました。
 なでしこジャパンの戦いぶりを見ていて、思い出した言葉があります。男子のイビチャ・オシム前代表監督が口にした「日本化」です。オシム前監督はフィジカルで劣る日本人に対して、パスを廻して相手のスペースへ走り、アジリティを生かすサッカーを徹底しようとしました。それを最も実践し、世界の舞台で通用することを示してくれたのが、今大会のなでしこジャパンだったのではないでしょうか。敗れはしましたが、内容では相手を上回るおもしろいサッカーができていたと思います。

 なでしこジャパンの快進撃を受け、日本サッカー協会の犬飼基昭会長は「女子の普及、日本サッカーの進化のためにJリーグの全クラブに女子チームを持ってほしい」と発言しました。是が非でも実現させてほしいものです。サッカーはメジャースポーツとはいえ、女子選手のおかれている環境は決して恵まれたものではありません。

 代表クラスでもプロ契約を結んでいるのは一部。アルバイトをしながらプレーしている選手もいます。サッカーをいくら続けようと思っても、その場所が限られているのが現状です。これでは、いくら選手たちが頑張ったところで、その裾野は広がりません。裾野が広がらなければ、いい選手も育ちません。選手が育たなければ、日本が更に強くなることは難しいでしょう。

 これはサッカーだけでなく、全ての競技にあてはまる話です。今大会の傾向として、競泳の北島康介選手や、女子レスリングの吉田沙保里選手、柔道の内柴正人選手、塚田真希選手など、前回大会の金メダリストが活躍するケースが目立ちました。4年間、彼らがトップの座を守ったことは本当に素晴らしいのですが、裏を返せば若手が育っていないとも言えます。日本のスポーツ強化策は曲がり角に差しかかっているのではないか。そんな一抹の不安を感じさせる五輪でもありました。

 オーストラリアはシドニー五輪の開催に向けたスポーツ強化策として、まず裾野を広げることを政策として進めました。“普及なくして金メダルはない”というわけです。各地にスポーツクラブが設立された結果、一般の人々がスポーツを楽しむ機会が増え、そこから優秀なアスリートが多く育ちました。シドニー五輪では金16個を含む、58個のメダル。今大会も21日時点で金11個を獲得するなど、今や世界有数のスポーツ大国です。

 日本も2016年に東京五輪の招致を目指しています。ならば、単に開催都市の選考をクリアするのみならず、日本のスポーツをもっと盛んにし、人々の身近なものとするにはどうすべきかを考えなくてはならないでしょう。そうでなければ、招致に対する幅広い国民の支持は得られません。

 そのための1つの方法といえるのが、オーストラリアが取り組んだ総合型スポーツクラブの充実です。今大会、太田雄貴選手が銀メダルを獲得して注目を集めたフェンシングは現在、競技人口がわずか5000人。普及といっても、ひとつの競技団体では限界があります。スポーツクラブが各地にあれば、そこを拠点にフェンシングに興味を持った子供たちへの指導も可能なはずです。

 総合型スポーツクラブを発展させることは、単に子供たちへの普及、育成にとどまりません。大人たちがスポーツを続ける受け皿にもなります。ドイツでプレーしている際にもっとも驚いたのは、多くの選手たちが昼間の仕事と両立させながら、高いレベルを維持していたこと。ドイツを代表するストライカーのミトスラフ・クローゼ(バイエルン)も7部リーグから才能を開花させていきました。

 選手のピークは人それぞれです。若い時期からトップクラスで活躍する選手もいれば、20代後半になって伸びる選手もいます。日本では、大学を卒業するまでにプロや社会人から声がかからなければ、スポーツを続ける道はほぼ閉ざされてしまいます。もしかしたら埋もれた才能が埋もれたままになっているかもしれません。

 たとえトップレベルにはなれなかったとしても、40代、50代でもスポーツを楽しむ環境があれば、人間はより豊かで健康的な生活を送ることができます。日本は残業が多く、ただでさえ余暇の時間が少ないと言われています。スポーツクラブの充実は、日本人のライフスタイルや社会の構造を変える可能性を秘めているのです。

 日本人選手の活躍はもとより、100メートル走、200メートル走でのウサイン・ボルト(ジャマイカ)の圧倒的な世界新記録など、今回の五輪も数々の感動を与えてくれました。やはりスポーツの力はすごい。そう改めて感じさせてくれる五輪でした。そのエネルギーはきっと日本の活力のひとつになるはずです。スポーツをみんなで楽しみ、育て、強くしていけるよう、議員という立場から旗振り役を果たすことができればと考えています。


友近聡朗(ともちか・としろう):参議院議員
 1975年4月24日、愛媛県出身。南宇和高時代は全国高校サッカー選手権大会で2年時にベスト8入りを果たす。早稲田大学を卒業後、単身ドイツへ。SVGゲッティンゲンなどでプレーし、地域に密着したサッカークラブに感動する。帰国後は愛媛FCの中心選手として活躍し、06年にはJ2昇格を達成した。この年限りで現役を引退。愛称はズーパー(独語でsuperの意)。07年夏の参院選愛媛選挙区に出馬し、初当選を果たした。
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