大相撲の名古屋場所では関脇の出島が劇的な逆転優勝を果たして、場所後に大関昇進を決めた。その出島は中大相撲部出身で、玉春日の2年後輩に当たる。出島は学生時代に11冠を獲得したこともあって、プロ入り前から活躍が期待されていた。
 それに比べ、玉春日の個人タイトルは体重別135キロ未満で優勝しただけ。言うなれば「エリート」と「雑草」。当時の中大監督の羽瀬重幸氏も「出島は確実に関脇にはなるが、玉春日は十両止まりかもしれない」と考えていた。玉春日自身も「どこまで通用するか分からない」と疑心暗鬼だった。
 幕下付け出しでデビューしたのは平成6年の初場所だったが、不安はいきなり現実となった。学生相撲出身は、いきなりの幕下でも優勝の期待がかかるが、玉春日は思いもよらぬ苦戦を強いられた。一進一退の相撲が続き、終わってみれば4勝3敗。勝ち越すのがやっとで、プロの厳しさを痛感させられた。「大学でも、それなりに稽古をしたつもりだったが、プロはそれ以上に厳しかった。立ち合いの当たり、土俵際の執念……どれをとっても一枚上だった。このままの稽古では駄目だなと思った」

 学生時代も稽古の虫と言われていた玉春日だが、まだまだ自分が甘かったことを認識。それから火の出るような稽古が始まった。相撲部屋では番付の低い者から稽古場に登場するが、玉春日は時間を惜しむように序二段、三段目とも精力的に土俵での稽古を続けた。番数は100番近くに及ぶこともあった。

 努力は結果に結びつく。2場所目からは4勝か5勝で大勝ちこそなかったが、着実に番付は上がっていった。
 入門から8場所目の平成8年春場所では念願の新十両に昇進。その後も快進撃は続いていった。十両5場所目の同年九州場所では初の10勝を達成。新入幕を確実にした。同時に初土俵からの連続勝ち越しは12場所まで伸び、学生相撲出身力士の記録も大きく更新。

「苦しい毎日だったけど、あの苦労があったからここまでこれたと思う。ライバルに負けないよう、今後も努力を忘れずに頑張ります」
 学生の同期だった武双山、土佐ノ海にもようやく追い着くと、喜びをかみしめると同時に更なる飛躍を誓った。

 負け越しなしで幕入りしたことで、ようやく自信が持てるようになってきた。
 玉春日のような突き押し相撲は立ち合いの一瞬が勝負を分けるが、自信は大きな強みになった。初対戦の力士がほとんどだったが自分の持ち味を存分に発揮。いきなり10勝を挙げて敢闘賞を受賞した。

 こうなれば地元も盛り上がらずにはいられない。愛媛出身では前田山が横綱に昇進した後も、朝若(松山市)、楯甲(宮窪町)、前ノ山(八幡浜市)、愛宕山(同)、鯉ノ勢(今治市)、宮ノ花(八幡浜市)と6人の幕内が誕生が誕生した、いずれも平幕止まり。玉春日に前田山以来の三役の期待がかかった。

(最終回につづく)
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<この記事は1999年7月「FORZA EHIME」で掲載されたものです>
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