過日、渡久地隆人(元ピューマ渡久地)のジム開きに行ってきた。東京・麻布にジムを出したのだ。「自分は世界チャンピオンになれなかったが、このジムで世界チャンピオンを育てることによって、その悔しさをはらしたい」と彼はスピーチで語っていた。
 その数日後、偶然にも六本木のレストランで元WBA世界フライ級チャンピオン、勇利アルバチャコフに会った。彼は福島県いわき市のジムで後進の指導にあたっていた。
 鋭い眼光、シャープな肉体。「まだリングに上がれそうじゃない」と水を向けると「もうダメよ」といってアルコールに口をつける真似をした。
 勇利アルバチャコフと渡久地隆人が世界タイトルをめぐってグラブをまじえたのは今から5年前のことである。

 ボクサーは相手の射程距離の中で危険と背中合わせの仕事をするファイタータイプと、時間と空間を自在に操るボクサータイプのふたつに大きく分類することができる。勇利アルバチャコフは打撃戦にも無類の強さを発揮するが、肉を切らせて骨を断つ、いわゆる日本人好みのファイトを好まない。殺戮はどこまでもスマートでなければならない、と彼は考えている。

 1996年8月26日。チャンピオン勇利が挑戦者に渡久地隆人を迎えてのWBC世界フライ級、9度目の防衛戦には“Ultimate Fight”(究極のファイト)というタイトルが冠された。誰もが待ち望んでいた対決だった。それというのも、本来ならこの一戦は5年前の3月に日本フライ級タイトルマッチとして実現していたはずだったからだ。当時のチャンピオンは渡久地。無敵の王者にシベリアのヒットマンの異名をとる最強の輸入ボクサーが挑むという図式である。下馬評はチャレンジャーの側に傾いていたが、渡久地のハードパンチが雌雄を決するとする見方も少なくなかった。

 ところがこの対決、王者の突然の失踪により幻に終わってしまう。渡久地はそのペナルティーとして無期限出場停止処分を受け、2年5ヶ月にも及ぶブランクを余儀なくされることになる。渡久地が失った時間の大きさに打ちのめされているのを尻目に、勇利は世界王座にまでのぼりつめた。「勇利とやるために戻ってきた」と渡久地がいくら語気を強めたところで、それはもはや“負け犬の遠吠え”に過ぎなかった。

 長いブランクを経て渡久地がリングに戻ってきたのは93年4月だった。元WBA世界フライ級王者ヘスス・ロハスの技巧に屈し、初黒星を喫した。日本王座に返り咲いたのは95年1月。岡田明広(花形)相手に格の違いを見せつけた。それから3連続防衛を果たしたものの、内容的にはピリッとせず、先行きに不安がもたれた。本人も「勝って当然という試合ばかりだったから、燃えるものが少なかった」と告白している。

 その渡久地がガラッとかわったのは、勇利戦に向けての五次に及ぶキャンプを消化し終えてからだった。たるみ気味だった上腕や大腿の筋肉が引き締まり、持ち味とする小刻みなステップにも切れが戻った。渡久地の最大のアドバンテージはステップ・インの速さと鋭さである。それこそ、かつてリングネームに使用したピューマなみのスピードで相手の内懐にしのび込む。東日本新人王の決勝で川島郭志(元WBC世界J・バンタム級王者)を完膚なきまでに叩きのめしたシーンは、鳥肌が立つほど凄まじいものだった。ボクサーとして決して誉められた生活を送っているわけでもないのに、試合のたびに満員の観客が詰めかける“渡久地人気”の原点は、この試合にあった。

 勇利戦の前、私は貧困なる知恵を振りしぼって予想を立てた。勇利のボクシングは完成し切っており、弱点らしい弱点は見当たらない。「接近戦になれば渡久地のもの」と安易な見方を口にする者もいたが、これまで勇利が接近戦でダメージを食うのを見たことがない。むしろ距離が詰まれば詰まるほど勇利のブローは回転力を増し、内側から鋭く突き刺さる。その精度は渡久地の比ではない。

 一方の渡久地には最初からふたつのハンデがあった。ひとつは距離感の問題。離れようが接近しようが勇利が常に自らの距離で戦うことができるのに対し、渡久地は相手の内懐に踏み込まなくては仕事ができない。ふたつ目、打ち合いになった場合、最終的にフックパンチャーはストレートパンチャーに屈する。鎌(フック)で槍(ストレート)を仕留めようとする場合、当然のことながら槍の軌道を読み切っていなければならない。世界初挑戦の渡久地にそれができるかといえば、はなはだ疑問だった。

 さらに言えば、渡久地ほど“出入り”の雑なボクサーはいない。それが性格なのかクセなのかはともかく、フッと集中力が途切れる時があるのだ。ロハス戦がその典型である。リングの中央ではほぼ互角の打ち合いを演じながら、離れ際にストンとガードが落ちるクセを見抜かれ、そこを徹底して攻められた。

 こう見ていくと、渡久地の勝つ可能性はゼロに等しい。しかしそれでもしつこく考えていくうちに、ひとつの試合が脳裡に浮かんだ。1985年のレネ・アルレドンド―浜田剛史戦(WBC世界J・ウェルター級戦)。下馬評で不利を伝えられた浜田は初回、短期決戦にしか活路は見出せないと判断し、頭から飛び込んで強引にレネをロープに押し込み、力任せに粉砕してしまった。レネのエンジンがかかる前に大仕事をやり終えたのである。
 弱点が多く穴だらけの渡久地ではあるが、ステップ・インの速さという誰にも真似できない長所がある。チャンスがあるとすれば、「精密機械」が正確なリズムを刻み始める前、すなわち立ち上がりではないか……。

 チャレンジャーの渡久地はゴングが鳴る前から息巻いていた。檻から解き放たれた猛獣のようにリングをうろつき、襲いかからんばかりの目つきで赤コーナーを睨んでいた。翻ってチャンピオンの勇利はどこまでも冷静だった。寒色系の闘志とでもいうべきか。戦場に赴いた傭兵が醸し出すそれにも似た、氷のような殺意が見てとれた。

 かつて勇利に渡久地についての感想を求めたことがある。陳潤彦との初防衛戦に勝利した直後のことだ。「興味ないネ」
 勇利は素っ気なく言い放ったあとで、こう付け加えた。
「自分の仕事は目の前の敵を倒すことだけだ。トグチは今、私の前に立ちはだかっているわけではない。戦うときがくれば、ただ倒すだけのことさ」

(つづく)

<このコラムは二宮清純「Boxer's Profile」のコーナーで2001年5月に掲載されたものです>
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