小林智昭は皮ジャンにジーンズというラフな出で立ちで現れた。皮ジャンの中にはオレンジ色のポロシャツを着込んでいた。そういえば高橋ナオト戦のトランクスの色もオレンジだった。
 番狂わせともいえる勝利を収めた高橋ナオト戦。この試合の観戦記を書くため、私は智昭が所属する角海老宝石ジムに連絡をとった。
「どこかで話をお聞きしたいんですが?」
「ああ、どこでもいいですよ」
 その頃、私は東急目蒲線(現目黒線)の西小山駅に程近いアパートに住んでいた。どこでもいいと言うんだったら近いところにしようと思って、目黒駅前の喫茶店を指定した。
ジムで立ち話程度なら、これまでにも何度かしたことがあった。しかし、さしでのインタビューとなるとこれが初めてだった。

 まだ両方の頬骨は激闘を忍ばせるかのように紫に変色していた。右の目尻も微かに切れていた。
「試合前から、勝てるんじゃないかという予感めいたものはありましたね」
うつむき加減にボソボソと話す割には、ひとつひとつの言葉には自信がみなぎっていた。おとなしいが芯のしっかりしている青年――それが彼に抱いた第一印象だった。

 智昭は早口で続けた。
「実は前の日の計量で、高橋君がジロっと睨んできたんです。いつもの彼はニコニコしていて、あまりキツい目つきはしないのに、この日ばかりは違っていた。
 そうしているうちに、帝拳ジムのマネジャーの長野ハルさんが『高橋君、立ってないで座りなさいよ』と声を掛けた。それでも座らないので今度は僕に向かって『小林君、座りなさい』と言ってくれたんです。でも僕はチャレンジャーなので『チャンピオンが立っているのに僕が座るわけにはいきませんよ』と断った。すると高橋君、ムカついたような表情で僕を睨みつけてもきたんです。
 その時ですね。うまくすればこれは勝てるんじゃないかと思った。緊張のし過ぎで彼、顔がこわばっていましたから。これがもしニヤニヤしながら『明日試合ですねェ』なんて言う会話があったら、僕は負けていたかもしれない。
 とにかく、この時の高橋君はいつもとは少し違っていましたよ。いつもはすごく明るい男なのに、プレッシャーがかかっていたんでしょうか……」

 試合前、高橋ナオトのビデオテープをすり切れるほど見た。とりわけ前試合、前々試合の今里光男とのバンタム級タイトルマッチ(高橋がタイトル奪取に成功し、初防衛にも成功)は穴があくほど、真剣に見入った。
 さしてスピードがあるわけでもなければ、パワーがあるわけでもない。テクニックに優れているわけでもない。どちらかといえば凡庸な範疇に属する小林智昭の最大の長所――それは人並みはずれた研究心であった。

「ビデオを見た結果、怖いのは右フックだということがわかりました。今里さんが倒されたのも、フィニッシュこそ左フックでしたが、本当にきいていたのはその前の右フックでしたからね。だから打ち合っても左のガードだけは下げないようにしようと・・・・・・。
 攻撃はボディを徹底して狙いました。今里さんとの試合でボディをもらった際、彼、一瞬だけ嫌な顔をしたんです。しかし今里さんはそれに気付かなかった。あそこでボディを連打していれば面白かったのに……。
 逆に言えば、ボディへの連打は高橋君にとって未経験のはず。だから、ここを攻めておけば足を止めることができると思ったんです」

 試合は智昭が、あらかじめ脳裏に思い描いていた通りの内容となった。前半、ラッシュして徹底してボディを攻め、スタミナを奪いにかかった。火の出るような打ち合いになっても、左のグローブだけは下げなかった。自らのアゴをきっちりガードし、ナオトのカウンターをことごとく未遂に終わらせた。
「アイツ、あんなにナオトを研究してやがって!」
 後楽園ホール。新聞記者たちのひと通りの取材が終わり、控室を出た際に吐き捨てた阿部会長のセリフが私は未だに忘れられない。

 当時、智昭は角海老ジムの同僚たちから“ボクシング博士”と呼ばれていた。
「小林さんって、ボクシングのことなら何でも知っているんですよ」
 ジムの後輩が目を丸くして、そう言ったことがある。
 凡庸の中の非凡――それはひとえにボクシングに対する情熱がそうさせるものだった。

 タイトル獲得から数日後、智昭は王座を返上した。これには批判の声が上がった。せっかく獲ったタイトルを、なぜ簡単に手放すのか。日本タイトルをなめているのか。こんなことが続けば、日本タイトルの価値は下がる一方じゃないか……。
 概ね的を射た批判だった。
 しかし智昭には、せっかく獲った虎の子のタイトルを返上しなければならない理由があった。

 彼は右目を痛めていた。
 悲願の世界タイトル挑戦を実現するためには、残り時間は限られている。数試合のチューンナップマッチをはさんだ後、一気に世界王座に挑む――それが彼と彼の陣営が描いた戦略だった。
 幸い、高橋ナオトを破ったことで、智昭は世界ランカー(10位)の座を手に入れた。当時、ひとつの目安として、世界ランキングの10位以内にノミネートされていれば、チャレンジャーとしては有資格者と見なされた。

 ただし、日本ボクシング界最大のホープを破ったとはいえ、一般世間の尺度で計ればチャレンジャーとしての智昭は無名である。テレビ局がバックについているわけでもない。
 ボクシングはもちろんスポーツではあるが、興行的な色彩も帯びている。勝てる見込みの少ないボクサー、地味なボクサーが世界タイトルに挑戦しようとしても、プロモーターの協力は得られにくい。テレビ局がバックについていないとなおさらだ。チャンピオンに支払う高額なファイトマネーを捻出することができないからだ。

 必然的に、勝てる見込みの少ないボクサー、地味なボクサーは海外に足を延ばさなければならない。そうまでしなければチャンスは得られない。
 国内で外国からチャンピオンを招いての世界挑戦と、自ら海外に出向いての世界挑戦とを比べた場合、どちらに分があるか。これまで日本のジムからは48人の世界チャンピオンが誕生しているが、海外でのベルト奪取に成功したのは、西城正三、柴田国明、上原康恒、三原正、平仲明信、オルズベック・ナザロフらわずか7人。ほとんどが不可能といっても過言ではない数字である。

 なぜか。まずひとつにボクシングの世界には明確なホームタウンデシジョンが存在する。
「海外ではKOでなければ勝てない」
 よくそう言われるように、見た目には数ポイント、リードを奪っていたとしても、そんなものは全くあてにならない。白黒はっきりした決着をつけるにはKOしかないのだ。

 二つ目に国内で防衛戦を行える相手チャンピオンは、もうそれだけで人気王者といっていい。軽量級シーンにおいて、日本は世界最大のマーケットである。日本のファイトマネーはタイや韓国、あるいは中南米諸国の比ではない。海外の王者が日本のチャレンジャーと戦うために、わざわざ敵地にまでやってくるのは、高額のファイトマネーが保証されているからに他ならない。

 しかし、これは逆に解釈すれば、軽量級で自国に居座って防衛戦を行えるチャンピオンは並外れた人気と実力を持っているということでもある。わざわざカネのある日本に出向かなくても、それと同等のビジネスが国内でできるのだ。この手のボクサーは、その国では大半が英雄視されている。
 智昭が挑むWBA世界バンタム級チャンピオン文成吉もそんなボクサーだった。

 1989年2月14日、智昭は韓国、ソウルに飛んだ。19日、大田で文成吉に挑むにためである。
 石の拳――文成吉は韓国でそう呼ばれていた。このニックネームはライト級、ウェルター級、ジュニアミドル級と3階級を制覇し、中量級シーンにおいては最強と呼ばれる伝説の男ロベルト・デュランのいわば代名詞とも呼べるものだが、文成吉もまた同じような雰囲気を漂わせていた。

 文成吉は智昭よりもひとつ年上の25歳(当時)でこれまで8戦全勝(7KO)、プロデビューわずか7戦目で世界王座に就いている。
 なにしろアマチュアのレコードが凄い。119勝(98KO)7敗。ロス五輪こそメダルを逃したが、世界大会やアジア大会を制した実力者で、ソウル五輪に出場していれば、有力な金メダル候補と言われていた。

 格上の相手、しかも敵地。智昭が勝つチャンスは『十にひとつ、あるかどうか』と見られていた。
 こんな不利なデータもある。智昭が挑戦するまで日本人選手が韓国に遠征しての世界戦は20回行われていたが、日本人が勝ったのは1985年12月、渡辺二郎が尹石煥を5回KOで破ったわずか1試合のみ。
 勝利を信じていたのは智昭ひとりだったと言っていいかもしれない。

「成田を発つ時、今度、日本に帰る時には世界チャンピオンになっているんだなぁ、と思うと、もう、うれしくて、うれしくて……」
 会場となった忠武体育館は5千人を超える観客で埋まった。試合開始を告げるゴングは午後7時。
 初回、智昭は好調な滑り出しを見せた。小刻みなジャブが王者の顔面をとらえ、はるばる日本から駆けつけた数少ない応援者に期待を抱かせた。

 しかし2回以降、戦況は王者の一方的なペースとなる。文成吉の、それこそ石のような重い連打をくい、ズルズルと後退を余儀なくされる。足を止めての得意の打ち合いも、すべて軍配は韓国人チャンピオンの側に上がった。
 そして迎えた5回、智昭はオール・オア・ナッシングの勝負を賭ける。文の右フックに合わせカウンターの右アッパーを突き上げた。手応えはあった。しかし、後が続かない。

 最後はコーナーに詰められ、サンドバックのように打ちまくられた。それでも倒れない。これ以上は危険と見たレフェリーが割って入る。キャンバスにヒザを降ろさないことが、智昭の最後の抵抗だったのかもしれない。
「本当はもう少し攻撃したかった。意地を示したかった。世界一の男と一対一の殴り合いができたことを、僕は誇りに思っています」
 引退後、たった一度の世界戦について、智昭はこう語った。
 夢にまで見た世界戦のリング――698秒の完全燃焼だった。

「考えてみれば、あの子は幸せな人生を生きたのかもしれない。やりたいことを全部やったんですからね」
 長野県飯山市の市営住宅。
 霊前に線香を供える私の傍で、母・ちず子さんは言った。
 50メートルを、息をつぐこともなく全力で駆け抜けていくような28年5ケ月の濃密なる人生。
 ラストゴングは何の前触れもなく、不意に打ち鳴らされた。

「飯山は春の訪れが遅いですから」
 智昭が眠る墓を訪ねる。
 道すがら、ちず子さんは白い息を自らの両手に吐きかけながら言った。

(おわり)
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<このコラムは二宮清純「Boxer's Profile」のコーナーで2003年4月に掲載されたものです>
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