古い取材ノートは「オフトの言葉」で埋め尽くされている。
 ビルドアップ、ディシプリン、コンパクト、スリーライン、アイコンタクト、コーチング……。
 今なら少年サッカーの現場でも使われているような初歩的なキーワードだが、当時は何もかもが新鮮で、取材しているのか講義を受けているのかわからないような状況だった。
 そして、それは代表選手も同じだった。

 以下は都並敏史から聞いた話。
「オフトはDFラインのプレーヤーに森保一がボランチの位置で前を向きやすくする指示を出すことを徹底させました。ターン、すなわち“振り向け”という指示です。
 ボールを持った時、相手が近くに来ていなければ“ターン”、来ていれば“リターン”と一番森保に近いプレーヤーが伝えていた。森保はその指示に従ってただ機械的に動いているだけでよかった。
 これは笑い話ですが、ある選手が“リターン”と言うべきところを間違えて“ターン”と言ってしまい、振り向いた森保は真正面から相手にぶつかってしまった。それくらい、自分の仕事に精一杯だったんです。
 しかし、オレたちは誰も森保を笑う気にはなれなかった。というのも森保より少しうまいとはいえ、当時の日本代表の中で、世界へ出て楽々と前を向ける選手はラモスくらいしかいなかったんだから。それが現実だったんです」
 日本代表監督ハンス・オフト(92年5月〜93年10月)は日本サッカーにとって中興の祖とでも言うべき人物である。
 92年8月、ダイナスティカップに優勝した直後、スポーツ紙に「オフト・マジック」という見出しが躍った。
 オフトはこの「マジック」という言葉をひどく嫌った。水を向けると「オレのはロジックだ」と反駁した。

 オフトジャパンの象徴といも言える選手がFWの高木琢也である。身長188センチ、体重82キロの偉丈夫。「アジアの大砲」と呼ばれていた。
 実際の身長は公称よりも低かったが、ある指導者から「FWは1センチでも背が高い方が代表選出に有利。相手への威嚇にもなる」とアドバイスを受け、数センチゲタを履かせた。
「アジアの大砲」の目標はマンチェスター・ユナイテッドで活躍していたマーク・ヒューズだった。高木はこのウェールズ人のプレーを理想としていた。
「ヒューズは頑丈で相手に蹴られてもビクともしない。シュートする時、自分の片方の足をわざと蹴らせ、もう片方の足でボールを蹴ってみせたりする。相手が足をすくいにくると、今度はそれをブロックして振り向きざまにシュートする。このタフさは見ていて勉強になる」
 若き日の高木は、目を輝かせてこう言った。
 この高木にオフトは「ターゲットマン」という役割を与えた。字義どおり味方の標的として前線で体を張り、潰されても敵を道連れにすることで、得点機を演出するのが最大の任務である。
 だがお世辞にも高木は器用な選手とは言えなかった。足元が不安で、ドリブルしているのかボールを引きずっているのかわからないようなプレーもあった。
「それでいいんだ」
 周囲の不安をオフトは一蹴した。指揮官は高木をアジアを突破し、ワールドカップに出場するための必要不可欠な大ゴマと位置付けていた。

 その頃、都並から、こんな話を聞いたことがある。
「スローイングをトラップし、ヒュっと足のアウトの部分を使って外へ抜け出す。オフトはこれをやらせたいんだけど、高木がうまくできないんです。ヨーロッパや南米の選手だったら目をつぶってもできるプレーが高木には難しい。そこでオフトは高木を呼び、目の前でそのプレーを実演してみせたんですけど、これがシャレにならないほどうまい。ハタから見ていると、どっちが代表選手なのかわからないほどでしたね」
 高木も自らに課された役割を、よく心得ていた。
「オフトは僕に小器用なプレーを求めていない。“キーパーもろともゴールに入れてやる”くらいの気持ちでやってますよ」
 その高木が最高に輝いたのは92年10月のアジアカップの決勝である。相手はサウジアラビア。
 前半36分、カズからのクロスをゴール中央で受けた高木は胸でトラップし、左足のボレーでゴール右隅へ突き刺したのである。
 アジアカップ初制覇。日本代表にとってはワールドカップが「坂の上の雲」の時代である。

(後編へつづく)

<この原稿は2009年11月24日号『週刊サッカーダイジェスト』に掲載されたものです>

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