大亀スポーツ振興財団では毎年、スポーツで優秀な成績を収めた愛媛県出身選手や、スポーツ界に貢献した県内の個人、団体を表彰している。9回目を迎えた今年度も5名の個人と1組の夫婦、1団体の受賞が決まり、18日に表彰式が行われた。受賞者の中から、選手育成などの功労者に送られる「菜の花賞」に輝いた柔道の棟田利幸師範、器械体操指導者の東海林慎介、千織夫妻に自身の指導哲学と今後の目標を訊いた。
(写真:大亀会長(前列中央)を囲んで受賞者の記念撮影)
 柔道の指導は宿命

 柔道の棟田といえば、世界選手権を2度制した100キロ超級の棟田康幸を思い浮かべる人が多いだろう。その棟田に柔道のイロハを教えたのが、父・利幸さんである。利幸さんも現役時代は、1971年から四国代表として10年連続で全日本選手権に出場した実績を持つ。梶原一騎原作の『空手バカ一代』に登場する雲井代悟のモデルにもなった名柔道家だ。
「当時は道場で子どもたちを教えながら、稽古をしていました。ちゃんと投げ、ちゃんと飛ぶ。正しい型を教えることで、自分の柔道も磨かれていったんです。柔道を客観的に見られたことが勝ち続けられた要因でしょう」

 そんな師範が、指導していた道場を引き継ぐ形で棟田武道館を立ち上げたのは97年だ。
「当時のオーナーから“道場を閉めたい”と聞いた時、そこには子どもたちや後輩が80人ほど所属していました。彼らの受け皿をつくらなければという一心でしたね」
 幸い、実家が農家だったため土地はあった。道場建築などの初期投資で借金を負ったものの、ためらいはなかった。

 棟田さん(写真)の柔道へのひたむきな思いが結実し、新生武道館は目覚ましい実績を残す。2000年には全国少年柔道大会で団体優勝。個人でも全国を制する子どもたちを輩出した。現在は小学生、中学生を中心に60〜80人ほどが道場で汗を流す。
「結果としては満足しています。でも、僕の目標はあくまでも子どもの健全育成。もちろん強い選手にもなってほしいですが、まずは柔道を通じて礼儀正しい子になってほしい。最初は挨拶もできなかった子どもたちが、進んで挨拶をしてくれるようになった時が一番うれしいですね」
 棟田武道館では柔道のみならず、学校での勉強も重視する。稽古は基本的に週3回で、「一に勉強、二に柔道」との方針だ。棟田さんの実績と人柄から、指導陣も充実しており、最低でも5、6人の師範、コーチが稽古を見守っている。

 日本生まれの柔道は、世界のJUDOへ大きな発展を遂げた。だが、国際化に伴う“弊害”がないわけではない。勝敗を重視するあまり、一本狙いではなく、有効などのポイントを稼ぐスタイルが目立つようになった。レスリングのようなタックル技も横行した。
「日本でも最近は組んだら、すぐ足をかける風潮があります。やはり基本はしっかり握って、引きつけて投げる。この基本を大事にしていきたい」
 さすがに国際柔道連盟も「本質が失われる」と、今年よりタックル技を反則負けとする新ルールを取り入れた。棟田武道館の基本を踏まえた柔道は再び見直される時が来ている。

「これからもずっと少年柔道に携わると思います。それが僕の宿命です」
 ゆくゆくは世界を制した息子に武道館を継いでほしいという気持ちがある。「50歳を過ぎて体が動かなくなったので、今は指導といっても口だけですよ」。そう苦笑いしながらも、指導への情熱は全く衰えていない。愛媛に棟田武道館あり――。その畳の上から、これからも有望な柔道家が次々と生まれることだろう。

 体操の指導が夫婦円満の秘訣

 火曜、水曜は地元の中学校でマット、平均台の指導。水曜と木曜はショッピングセンターのカルチャースクールでの体操教室。週末は子どもたちの指導で宇和島市へ……。東海林千織さんの1週間は、まさに体操で始まり、体操で終わる。中学校の教師を務める夫の慎介さんも、週末はともに宇和島で体操を教える。
「プライベートは体操にすべて捧げてきました。娘や息子が小さい頃には、“お父さんは体操が仕事”だと勘違いされていたみたいです」
 慎介さんはそう笑って、ここまでの指導者生活を振り返った。

 夫妻とも元体操選手である。慎介さん(写真)は宇和島市出身。“山下跳び”で東京五輪の金メダルを獲得した郷土のヒーロー、山下(現・松田)治廣さんに憧れて体操を始めた。日本体育大では新人戦で個人総合優勝など成績を残している。卒業後は“体操ニッポン”の指導法を学ぼうと、米国から請われて海を渡った。そこで目の当たりにした米国のレッスンは日本のそれとは大きく異なるものだった。

「カルチャーショックでしたね。当時の日本では指導者はイスに座って、“ああせい、こうせい”と指示を出すだけ。極端に言えば“根性があれば、体操はできる”という感じでした。ところが米国ではマットを敷いて安全対策を充分にした上で、先生が手とり足とり補助をしながら教えている。最初は甘やかしすぎの感じがしましたよ」

 まだ選手としても活動していた慎介さんは、たびたび米国の大会にも出場して好成績を収め、日本の技を現地の人々に示した。実力があればリスペクトされる米国社会において、指導者たちは熱心に慎介さんの話を聞き、代わりに補助の方法なども教えてくれた。
「今思えば、そこで身につけた指導法が役立ちましたね」と慎介さんは明かす。約8年間の渡米生活の間に、米国の体操レベルはどんどん上がっていった。慎介さんの帰国後に開催されたロサンゼルス五輪では女子個人総合でメアリー・ルー・レットンが金メダル。体操熱が一気に高まり、その後の躍進につながった。現在では日本でも、当時の米国流が当たり前の指導法になっている。

 千織さん(写真)は福岡県出身。当時は体操の強豪だった九州女子高で活躍し、国体にも出場した。東京女子体育大を卒業後、慎介さんと結婚してからは米国で子ども相手に体操を教えていた。帰国後は慎介さんが教員、千織さんはエアロビクスの講師と、器械体操から離れた生活を送っていたが、それが一変したのは今から18年前。米国で得た知識を生かす場がなく、「フラストレーションがたまっていた」という慎介さんら有志が体操教室の設立を持ちかけ、宇和島市体操協会の協力で、それが実現したのだ。

 以来、夫婦揃って体操に携わる生活が続いている。最初の心配は娘と息子の育児だったが、2人とも同じ体操教室に通わせることで解決した。子どもたちが独り立ちした今では、夫婦の会話も教え子たちのこと、今後の指導方針などが話題の中心を占める。
「指導に関しては基本的には主人を尊重しますが、時には意見が衝突することもある。けんかになるのも体操のことからなんですよ」
 千織さんはそう苦笑いするが、体操があるからこそお互いに話が尽きないことも、また事実。日々の指導が夫婦円満の秘訣にもなっているのだ。

 体操指導で大切なことは何か。それを慎介さんは粘土にたとえて説明する。まだ粘土、つまり体が柔らかく幼い時にいろんな技を習得させれば、いくらでも体操選手としての形はできる。ところが、大きくなって体が固くなってしまうと、もう、そこから飛躍的に伸ばすことは難しい。それだけに早期にショートカットでいかに技を覚えこませるかが指導のポイントになる。

「全国で通用する体操選手を育てたい。同じ目標を夫婦で共有していることが、ずっと続けられる理由でしょうね」(千織さん)
 7年後のえひめ国体、慎介さんは65歳。補助をしながら体操を教えるには体力的に一区切りをつけなくてはいけない年齢にさしかかる。だからこそ、地元の国体でトップに立つような若手を育てたい。
「実は今、小学3年生で楽しみな子がいるんです。段違い平行棒で、もう月面宙返りをマスターしている。30年にひとりの逸材だと思っています。彼女は7年後、高校生。ぜひ愛媛のエースになってほしい」
 そう語る慎介さんの声は弾んでいた。体操にかける夫唱婦随の日々は、まだまだ終わりそうにない。

 その他の受賞者は以下の通り。
<菜の花賞>
 安部峰康(弓道指導)
 本田演昭(少林寺拳法指導)
 吉田洋一(ボート指導)
<ふるさとスポーツ賞>
 篠山(ささやま)クラブ
<特別賞>
 大畠千枝(サッカー審判員)

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関連リンク>>(財)大亀スポーツ振興財団

(石田洋之)
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