16歳で日本代表候補入りを果たすなど、高校時代から全国にその名をとどろかせ、将来を嘱望されてきた大型センター渡嘉敷来夢。彼女は今、実業団1年目のシーズンを送っている。所属するJXサンフラワーズは大神雄子や吉田亜沙美など多くの日本代表メンバーをそろえる強豪だ。昨シーズンは連覇を果たし、今シーズンも14日現在、14試合を終えて全勝を誇っている。そんな中、渡嘉敷は全試合に出場。12月4日のトヨタ自動車アンテロープス戦からは4試合連続で先発出場している。実業団のレベルや環境にも慣れ、彼女が本領を発揮するのはこれからだ。2012年ロンドン五輪の期待の星として注目されている渡嘉敷。現在の心境、そして彼女を支えてきた過去に迫った。
 2010年10月8日、WJBLリーグ開幕戦。国立代々木競技場第2体育館ではJXサンフラワーズと、シャンソンVマジックが火花を散らしていた。試合は両者ともに一歩も譲らない一進一退の攻防戦が展開されていた。後半戦に入り、熱気がさらにこみあげる中、渡嘉敷は第3Q残り5分となったところで登場した。実業団デビューの瞬間だった。

「これまでにない」というほど緊張したという渡嘉敷だが、第4Qに入ると徐々に彼女らしいプレーが出てくる。フリースロー、ゴール下のシュートが決まり、残り4分を切ったところでJXが逆転。最後は大神のシュートが決まり、65−64とJXが逃げ切るかたちで開幕白星を飾った。試合後のインタビュー、カメラを向けられると、170センチの大神の横で、191センチの渡嘉敷が恥ずかしそうに小さくなっていた。

 大神が一通り試合の感想を述べた後、「じゃあ渡嘉敷選手、ひと言お願いします」と彼女にマイクが向けられた。しかし、頭の中は真っ白。何と答えていいのかわからず、「頑張ります」のひと言で精一杯だった。「えっ!? それだけ?」。先輩の突っ込みに恥ずかしそうに笑って肩をすぼめる渡嘉敷。そのあどけない表情からは、19歳の彼女の素顔が垣間見えた。

 嬉しかった監督からの信頼

 開幕から2カ月が過ぎた。この間、渡嘉敷は一度、号泣したことがある。それは10月30日、愛知県・安城市体育館で行なわれたアイシンAWウィングスとの試合後のことだ。その日、彼女が尊敬してやまない桜花学園女子バスケットボール部の井上真一監督が試合観戦に訪れていた。試合は90−57とJXが圧勝。渡嘉敷も途中出場し、15分間、恩師の前でプレー姿を披露した。しかし、彼女が挙げた得点はフリースローを含めたわずか3点にとどまった。試合後、再び恩師を前にした彼女は声をあげて泣いた。

「井上先生は実業団に入って、成長した姿を見に来てくれたと思うんです。でも、試合後に『オマエ、少しプレーにキレがなくなったな。もっと中でプレーしていいんじゃないか?』と言われました。それも怒っているとかではなく、優しく言われたんです。そしたら、もう大泣きしてしまいました。井上先生と話をしているうちに高校時代が懐かしくなって正直、このまま愛知にいたいと思ってしまいました」
 中学卒業後、地元の埼玉県から桜花学園のある愛知県に越境留学し、15歳で親元を離れた時も全くホームシックにはかからなかったという渡嘉敷。その彼女が「東京に戻りたくない」と言って泣いたというのだ。それほど井上監督には彼女を素直にさせる何かがあるのだろう。なぜ、彼女がそこまで井上監督を慕っているのか。そこには高校3年間に積み上げられた確固たる信頼関係があった。

「モゴモゴしたしゃべり方で、何を言っているのかわからない人だなと思いました(笑)」
 これが渡嘉敷の井上監督への第一印象だ。しかし、すぐに監督が本気で自分を育てていこうとしてくれたことがわかったという。
「特にバスケの才能があったわけではないんです。最初は何もできなかった。そんな自分に先生はゼロから教えてくれました。ポストプレーができるようになったのも、先生が1対1で丁寧に指導してくれたからなんです」

 入学直後、ベンチ入りを果たした渡嘉敷は同年夏のインターハイでは初戦からスターティングメンバーに名を連ねた。彼女に与えられた役割はただ一つ。試合開始のジャンプボールを制することだった。そこには先取点を奪って、チームを勢いに乗せたいという井上監督の狙いがあった。
「ジャンプボール後、数分後には交代させられるんです。プレータイムは短いんですけど、それでも嬉しかったですよ。井上先生は自分の持ち味である身長をいかして起用してくれたわけですから。スタートで出ているということで、自分の気持ちもそれまでとは違いましたしね」

 その後、次第に渡嘉敷の出場時間は増えていった。最後の決勝戦では第1Qの10分間、思いっきりコートを走り回った。桜花学園は見事優勝し、前年に続いて連覇を果たした。秋の国体も制した桜花学園にとって、目指すは3冠。12月の全国高校選抜優勝大会(ウィンターカップ)での優勝だった。ところが大会直前、渡嘉敷にアクシデントが起こった。急にヒザが痛み始めたのだ。身長が急激に伸びたことによる成長痛だった。どうすることもできず、彼女は一人、体育館の上にあるトレーニングルームで過ごすしかなかった。

 そんなある日のことだ。いつものように、チームを離れてトレーニングをしていると、下の体育館から井上監督の声が聞こえてきた。
「なんで、こんな大事なときに、アイツは上(トレーニングルーム)にいるんだ!」
 そんな監督の言葉に、渡嘉敷は密かに喜びを感じていた。
「その時もジャンプボールのためにスタートで出させてもらっていただけで、レギュラーになっていたわけではないんです。それでも、そんなことを言ってくれて、“あぁ自分は本当に必要とされているんだな”と改めて感じることができました。先生の期待に応えるためにも頑張ろうと思いました」
  成長痛は完治しなかったが、渡嘉敷は大会に出場。全試合で先発出場し、決勝では18得点を叩き出す活躍でチームの優勝に貢献した。その活躍で「渡嘉敷来夢」の名はより一層、全国へと広まっていった。

 度重なる試練を乗り越えて

 3年生が抜け、新チームになると、渡嘉敷はいよいよレギュラーとしてチームを牽引するようになっていった。夏のインターハイ、順当に決勝に進出した桜花学園は3年ぶりの優勝を目指す東京成徳大高と対戦した。第1Qこそ9点差をつけ、幸先よいスタートを切ったが、その後は相手の堅い守備に苦戦し、思うように得点できなかった。第2Qで逆転を許すと、流れは一気に成徳へ。第4Qも続けざまにシュートを入れられ、残り8分を切ったところで56−74と18点もの差をつけられていた。しかし、タイムアウト後、スリーポイントを2本連続で決めたのをきっかけに、桜花学園は怒涛の攻撃に転じた。そしてついに逆転すると、そのまま成徳を振り切り、3連覇を達成した。

 インターハイで“奇跡の逆転劇”を演じた桜花学園は、秋の国体でも下馬評ではもちろん、優勝候補の筆頭となっていた。ところが、準々決勝で今度は自分たちが逆転負けを喫してしまったのだ。「どこかに驕りがあったんじゃないか……」。前半を終えた時点では10点差をつけていただけに、そう思わざるを得なかった。

 その日、渡嘉敷が寮に帰宅すると、一本の電話があった。井上監督からだった。
「今日の敗戦はオマエのせいだぞ」
 その試合、彼女自身はチームの得点リーダーとなっていた。だからといって、チームの負けは負け。彼女自身、入学以来初めての敗戦に、悔しい思いで帰路に着いた。そんな彼女に指揮官は厳しい言葉をぶつけ続けた。

「オマエが何点取ったか知らないけど、スーパースター気取りするなよ」
 渡嘉敷は心の中で「してないよ!」と叫んだが、決して口には出さなかった。ただただ泣きながら受話器の向こうの監督の声に耳を傾けていた。
「高校時代は勝っても負けても自分だったんです。たとえ周りが調子が悪くても、自分がもっと得点していれば勝てたわけですから。先生は敗戦の悔しさを私に身に沁みてわからせるために、そういう厳しいことを言ったんでしょうね。それに、それほど信頼されていたという証拠でもあると思うんです」

 悔しい敗戦により、チームはより一層、一丸となった。そしてウィンターカップまでいよいよあと1カ月と迫った11月、渡嘉敷はU−18日本代表としてアジア女子選手権に出場していた。その大会では38年ぶりとなる優勝に大きく貢献。チームにもいい流れを持ち帰ってくるかと思われたが、帰国した彼女にはまたも試練が訪れた。大会中に左足首を疲労骨折し、全治1カ月と診断されたのだ。ようやく練習に復帰したのは大会2週間前のことだった。

 大会までにはどうにか動けるようにはなっていたが、当然スタミナは落ちており、フル出場は望めなかった。しかし、エースが万全でないことが返ってチームに結束力を与えた。国体での敗戦もまた、選手たちのモチベーションを上げ、桜花学園は決勝に進んだ。対戦相手は前年と同じ、東京成徳大高だった。

 決勝前日、ミーティングが開かれた。そこで翌日のスターティングメンバーが発表された。その一人に渡嘉敷の名があった。足はまだ万全ではなかったが、チームに何としてでも貢献したかった。そして、勝ちたかった。とはいえ、スタミナには不安があり、渡嘉敷はその日、眠れない夜を過ごした。
「とにかく、やれるところまで全力でいこう」
 そんな思いを胸に、渡嘉敷は決勝に臨んだ。ところが、終わってみれば彼女は最後までコートに立っていた。一人で37得点を叩き出し、立派にチームのエースとしての仕事をこなしだのだ。

 ゲーム終了の合図が鳴ると、渡嘉敷はチームメイトの輪の中で大粒の涙を流した。国体の時とは違ううれし涙だった。
「あのウィンターカップはみんながいなかったら、自分は決勝のコートには立つことができなかった。先生も大事な時期にケガをしたことに怒りながらも、なんとか間に合うようにと一生懸命に病院を探してくれたりしたんです。試合中も止まると痛かったし、スタミナもなかったので、動けなくなってしまうこともありました。でもそんなとき、同級生が“リョウ、頑張れ!”って声をかけてくれたんです。それで、“みんな一生懸命してくれているのに、自分がこんなんではダメだ”と。それで最後まで頑張れました。井上先生もまさか最後までいけるとは思っていなかったんじゃないかな」
 表彰式で渡嘉敷はベスト5に表彰された。しかし、今でもその賞は自分ではないと思っている。本来なら自分の代わりに頑張ってくれた控えの3年生に受賞してもらいたかったのだ。

 最終学年でも、渡嘉敷には試練が立て続けに襲った。春には左足小指を疲労骨折し、約5カ月間、チームを離脱。秋の国体前には新型インフルエンザにかかった。そして最後のウィンターカップではプレッシャーからくるストレスで腹痛に悩まされ、大会期間中はご飯ものどに通らなかったという。体重も落ち、最後まで調子は戻らなかった。しかし、それでも彼女は最後までコートに立ち続けた。そして見事に3冠を果たし、高校通算8冠を達成した。

「高校3年間は自分が一番成長できたと思います。それも井上先生のおかげです。先生はバスケットに関してはすごく厳しい人でした。ときには無理難題を言うこともありました。でも、全ては自分に期待してくれているからこそ。先生との出会いが自分のバスケット人生を変えてくれたと思っています」

 渡嘉敷は本来、自らガツガツと前に出る方ではない。特別、自分に自信があるわけでもない。温厚で、どちらかといえばのんびり屋と言ってもいい。そんな彼女の性格を井上監督は見抜いている。だからこそ、あえて厳しさを求めたのだろう。そして、彼女の奥底にある負けず嫌いと、一度やると決めたことは最後までやり通す責任感の強さを引き出したのではないか。彼女自身もそのことをよくわかっている。どれだけ厳しいことを言われても「お父さんのよう」と慕い、信頼している理由はそこにある。

「実業団での自分はまだまだ。でも、井上先生は今も自分に期待してくれいてる。それにちょっとずつでも応えていきたい」
 そう言う彼女の表情には、もう甘えは一切なかった。恩師への感謝を胸に、渡嘉敷は今、必死にコートを走り回っている。次こそ成長した自分を見せられるように……。

(後編へつづく)

渡嘉敷来夢(とかしき・らむ)プロフィール>
1991年6月11日、埼玉県生まれ。小学6年の時に臨時で出場した陸上大会では走り高跳びで全国優勝する。中学1年からバスケットボールを始め、中学2年途中に転向した春日部東中では全国大会ベスト8に進出した。桜花学園高に進学し、1年からベンチ入り。長身をいかしたプレーで通算8冠を達成した。16歳で日本代表候補に選ばれるなど、日本屈指の大型センターとして将来を嘱望されている。今シーズンよりJXサンフラワーズに所属。191センチ、80キロ。

(斎藤寿子)
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