今や日本の女子バスケットボール界の新星として期待を寄せられている渡嘉敷来夢だが、子供の頃からバスケットボール一筋というわけではなかった。初めてのスポーツは陸上の走り高跳びだった。小学6年の時、臨時の選手として借り出され、ほとんど本格的に練習しなかったにもかかわらず、結果は何と全国大会優勝。そのまま陸上選手としての期待の声も大きかったが、本人には全くその気はなかった。そして中学では軽い気持ちでバスケットボール部に入り、転校先の春日部東中で3年時には全国大会ベスト8入りする。ところが、彼女は中学卒業後はサッカーをやりたいと思っていたという。そんな彼女がなぜ、今もバスケットボールを続けているのか。そこには彼女らしい責任感の強さがあった。
「バレーボールは好きだったのでやりたいなとは思っていたんですけど、あのユニホームが自分には無理だったんです。あとは運動部系といえばテニスがありましたけど、スコートを履くなんて考えられなかった。そしたら、残ったのがバスケットだったんです」
 これが渡嘉敷がバスケットボールを始めた理由だ。何とも拍子抜けしてしまう話だが、余計な力が入っていないところが彼女らしいといえば彼女らしいのかもしれない。

 地元の豊春中学のチームは部員も少なく、勝負へのこだわりは一切なかった。初戦敗退が常だったが、バスケットを楽しむことで満足だったのだ。渡嘉敷自身もそれで十分だと思っていた。そんな彼女に転機が訪れたのは中学2年の時だった。チームがいくら弱くても、身長の高い渡嘉敷だけはやはり目立っていたのだろう。実績がないにもかかわらず、埼玉県選抜に選出されたのだ。そこで受けた刺激が彼女を変えた。

「埼玉県選抜に選ばれたからには、自分もうまくならなくちゃダメだなと思ったんです。でも当時、豊春中には女子のバスケ部員は3学年あわせても5人しかいませんでした。だから大会にも出られなかったんです。それで、思い切って転校することにしました」

 中学2年の冬、渡嘉敷は春日部東中に転校した。同校のバスケットボール部は、豊春中とは何もかもが違っていた。練習は厳しく、選手の誰もが勝ちたいと目をギラギラさせていた。最初はやはり、緊張感漂う雰囲気にとまどった渡嘉敷だが、やがてすぐに溶け込んでいったという。そして勝つ楽しさを覚えた彼女は、どんどんバスケットボールにのめりこんでいった。自宅と中学校までは自転車で片道40分かかる。それでも「うまくなりたい。早くみんなに追いつきたい」という気持ちが彼女を自主練習へと向かわせた。その甲斐あって3年時には全国大会で8強入りを果たした。と同時に「渡嘉敷来夢」の名が全国に知れ渡った。

 だが、彼女はその頃、卒業後はバスケットを続けるつもりはなかった。休み時間、男子と一緒に楽しんでいたサッカーに夢中だったのだ。
「中学でバスケットは思いっきりやったので、もう未練はなかったんです。だから、人生の第2章という感じで、次はサッカーをやってみたいという気持ちが強かったですね」
 しかし、バスケットボール界が彼女を放っておくはずがなかった。彼女の元には全国の強豪校から誘いがきていた。渡嘉敷はそんな自分が未経験のサッカーをやっていいのだろうか、と悩み始めた。そして彼女のそんな迷いを吹き消したのが、桜花学園の井上真一監督の存在だったという。

「井上先生の噂は中学時代から聞いていました。センターを育てるのがうまいとか、ナショナルチームに卒業生を多く輩出しているとか……。最後は桜花学園か東京成徳ですごく迷ったんです。両親としては近い方が安心ということで、成徳に行ってもらいたかったようです。でも、私は逆にどうせやるなら親元を離れて、厳しい環境のところでやろうと思いました。近いと、どうしても甘えてしまう。それは嫌だったんです。高校でバスケットをやるなら、ガッツリ本気でやりたかった。でも、最終的に決め手となったのは、やっぱり井上先生の人柄ですね」

 サッカーへの未練はなかったのか――。
「これだけ身長もあって、期待もされている。もう、バスケから離れられない運命にあるんだなと思ったんです。実はバレーボール部からも誘いがあったようなんです。『未経験でもいいから』って。でも一度、桜花でバスケをやろうと決めてからは、もう迷いはありませんでした。自分の中で決心はついていました」
 その後の彼女の活躍は周知の通りだ。

 背中を押してくれた友人からのメール

 現在、彼女は2つの目標を掲げている。WJBLでの新人王、そして日本代表としての地位の確立だ。10月末に井上監督が試合を観戦に訪れたときには、自分のプレーに自信をもつことができず、迷いが生じていた。その時、井上監督からは「このままじゃ、新人王は無理だな」とはっきりと言われたという。しかし、それはもう過去のことだ。今やスタメン入りするまでに成長した渡嘉敷は、シーズンの前半を終えた今、ブロックショットランキングで堂々の1位(1試合平均2.50)、野投(フィードゴール)成功率ではチームメイトの諏訪裕美の58.71%に次ぐ2位の55.21%をマークしている。「今、一番ほしい」と言っていた自信を徐々に取り戻しつつあるようだ。もはや新人王は現実味を帯びてきている。

 そしてもう一つは日本代表入りだ。16歳で初めて北京五輪の代表候補に入った渡嘉敷は今春、2年ぶりに代表候補入りを果たし、9月の世界選手権での活躍が期待された。しかし、味の素ナショナルトレーニングセンターでの合宿で足を故障し、またも代表入りはかなわなかった。
「高校時代から井上先生には『オマエは将来、日本代表に入るんだ』と言われ続けてきました。でも、自分ではピンとこなかった。初めて候補に入ったときも『自分はそんなのは無理だから、合宿に行きたくありません』って言ったほどです。実際、合宿に参加しても、代表に残りたいという気持ちはほとんどなかった。ただ、他の選手のプレーに見入っていただけでした」と渡嘉敷は言う。

 しかし、今春は違った。再び候補に選ばれると、渡嘉敷はこれまでにない強い思いを抱いて合宿に参加していた。実はその直前、彼女の気持ちを変化させる出来事があったのだ。ある日、高校時代のチームメイトからメールが送られてきた。その友人は高校3年間、一度も試合に出場することができなかったが、それでも大学でバスケットボールを続けていた。
「久しぶり。ケガとかしてない?」
 メールの内容はたわいのない内容だった。その頃、渡嘉敷はチーム遠征の米国から帰国したばかり。どこも故障はしていなかった。
「元気だよ」
 渡嘉敷は軽くそう返信した。しかし、それから数日後、その友人が前十字切断で今シーズンはもうプレーできない状態にあることを風の便りで知った。渡嘉敷は申し訳なさでいっぱいになった。

「他人のことを考えている場合じゃないのに、私のことを心配してくれてメールをくれたんです。それを思ったら、その子の分まで頑張ろうと。代表もせっかく候補に入っているんだから、残れるように最大限の努力をしなくてはいけないと考え直したんです。それに、2年前のように一人だけ高校生というわけではない。みんなと同じWJBLのプレーヤーなわけですから、甘いことは言っていられない。本気で代表を狙って頑張ろうと決心して合宿に臨んだんです。ケガはそんな矢先のことだったので、本当に悔しかったです」

 2年後にはロンドン五輪が待ち受けている。日本女子バスケは前回の北京五輪は最終予選で敗れ、アテネに続いての出場はかなわなかった。それだけにロンドンへの思いは強い。そして世界の選手と比べても見劣りしない高さをもつ渡嘉敷への期待は決して小さくはない。彼女が代表デビューをする日を心待ちにしているバスケ関係者、ファンは多い。その筆頭は井上監督だろう。渡嘉敷もそれをわかっているはずだ。

「夢がかなうように」とつけられた「来夢」という名前。母親が考えたこの名前を渡嘉敷は気に入っている。そして、これまでは決して名前負けしていない活躍を見せ続けてきた。次に目指すは世界の舞台だ。今はそのための階段を一歩一歩、着実に上がっている。

(おわり)

渡嘉敷来夢(とかしき・らむ)プロフィール>
1991年6月11日、埼玉県生まれ。小学6年の時に臨時で出場した陸上大会では走り高跳びで全国優勝する。中学1年からバスケットボールを始め、中学2年途中に転向した春日部東中では全国大会ベスト8に進出した。桜花学園高に進学し、1年からベンチ入り。長身をいかしたプレーで通算8冠を達成した。16歳で日本代表候補に選ばれるなど、日本屈指の大型センターとして将来を嘱望されている。今シーズンよりJXサンフラワーズに所属。191センチ、80キロ。

>>前編はこちら


(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから