記録を聞いて、一番驚いたのは本人だった。61m56。2010年11月25日、広州アジア大会の陸上女子やり投。最終6投目は日本記録を41cm更新するビッグスローだった。
「やりが飛んでいく姿が“きれいだな”とは感じたんですけど、さすがに61mも飛んでいるとは思わなかったんです」
 記録を知ったのは競技後のインタビュースペース。「61mですか? 日本新ですか? 本当ですか?」。思わず聞き返してしまうほど興奮を抑えられなかった。
「投げた感じがしない」59m

 最終投てきの前に、もう金メダルは確定していた。優勝を決めたのは3投目だ。2投目までは4位。調子は良かったが、やりは思うように飛ばなかった。
「やりが左にカーブして落ちていました。ちょっと力が入りすぎて、どうしてもサイドにひっかけてしまう感じになっていましたね」
 ただ、焦りはなかった。1投目、2投目と感触は良くなっていたからだ。
「しっかりやりを握れ」
 大学時代の恩師・岡田雅次コーチからアドバイスを受け、ピットに入った。投げる方向をしっかりと見据え、いつもと変わらぬ助走距離、いつもと変わらぬフォームでやりを放った。

 高い角度で上がったやりはドンドン伸びていく。緑のピッチに刺さった地点は59m39。今シーズンのベストで一気に全選手のトップに躍り出た。ところが、本人にとっては納得のいかない一投だった。
「自分の中では投げた感じがしなかったんです。しっかり投げての59mではなかった。“えーっ? ここはちょっと違ったよな”という中での59mでした」

 前回のドーハアジア大会は銅メダル。広州に乗り込む前の目標は「銀メダルか金メダル」、そして「60メートルを投げること」だった。だが、岡田コーチの設定はより高いところにあった。「62メートルで金メダル」。それが可能なだけの準備はできていた。
「彼女は投げに行く過程で“肩が抜ける”状態になるところが欠点だったです。肩が体から離れ、サイド気味の投げ方になって力が抜けてしまう。それが夏場頃から肩が抜けなくなって、しっかり力が入るようになってきたんです」

 アジア大会1カ月前に行われた下関で開催された田島記念陸上では、追い風が吹くやり投には不利な条件ながら、55メートル以上の投てきが4本。状態は上向きだった。その後のトレーニングも順調に消化し、大会直前まで好調は持続した。
「まだまだ彼女は成長過程。でも、今回は金メダルを狙える。もともと大舞台に強いタイプ。このチャンスを逃してほしくない」
 岡田コーチは十分な手応えをもって、本番当日を迎えていた。

 今までやってきたことは変えない

 海老原と岡田コーチは4投目、5投目とさらなる記録を求め、試行錯誤する。4投目は重心を低くし、しっかり投げ切ることをテーマにした。だが、かえってフォームが乱れてしまい、うまくいかなかった。次の5投目はより高く角度をつけてみた。ところが最後に手首のスナップを利かせることができず、ただ、やりは高く上がっただけに終わった。残るはラスト1投。海老原は大会前まで何度も体にしみこませたフォームを、そのまま出しきることを心に誓った。

 思いは岡田コーチも同じだった。
「しっかり握って、手首を返す。そして、やりを浮かせる。今までやってきたことは変えないよ」
 5投目が終わった直後、そう海老原に伝えた。気づけば試合は緊迫の度合いを増していた。海老原は3投目からトップの状態が続き、アジアランキングでは上位の中国勢が伸び悩んでいた。

「中国の選手が絶対に抜いてくるはず。60メートルも投げないで勝てるとは思えなかった」
 この6投目ですべてが決まる。2位につけるアジアランキング1位の薛娟が最後の投てきに入る前、もう1度、岡田コーチは念を押した。
「どんなことがあっても、今までやってきたことは変えないぞ。そのまま行け!」
 海老原も大きくうなずいた。

 しかし、勝負は思っていたほどもつれなかった。2位の薛が投じたやりは60mラインのはるか手前で落下。全選手が海老原の59m39を上回れなかったのだ。最終の6投目を待たずして、金メダルは決まった。ただ、肝心の本人は勝ったかどうかわからないでいた。
「中国の選手が投げたのをチラッと見ただけで、もうピットに入っていたので……。私にとっては抜かれていようが、抜かれていなかろうが、“この1投で決める”という強い気持ちで臨みました」

 目の前の投てきに集中すると、もう雑念は頭から消えていた。岡田コーチ曰く「やや肩が開き気味」のフォームではあったが、やりはこの日、最もきれいな放物線を描く。本人もようやく勝ちを確信できた。投げ切った後、自然と大きなガッツポーズが出た。勝利の日の丸を受け取ると、うれし涙がこぼれた。日本人の同種目での金メダルは28年ぶり。しかも日本記録更新のオマケが付いた。
 
 とはいえ金メダルを獲得した3投目も最終6投目も、海老原にとっては決して大きな手ごたえのある投てきではなかった。なぜ、イメージ以上の飛距離が出たのか。
「結果的には、いつもは一生懸命、力を加えているところが、一瞬で力を伝えられたのかなと思います。本当に力が入ってなかったら飛ばないでしょうから」
 それは今までにない感触だった。2009年に60mを投げた時は自分の120%の力を出しての記録だった。しかし、今回は違う。61mのアーチを描いても、まだ余力がある気がした。

「“次はもうちょっとうまく投げたら、もっと飛ぶんじゃないか”と思いました。自分の可能性を広げてくれた大会だったかもしれませんね」
 実感の沸かないビッグスローによって、海老原は世界と対等に戦える実感を得た。
 
(後編につづく)

海老原有希(えびはら・ゆき)プロフィール>
1985年10月28日、栃木県出身。スズキ浜松アスリートクラブ所属。小学校では陸上、中学校でバスケットボールに取り組み、真岡女子高入学後にやり投の道へ。2年時にインターハイ準優勝を果たすと、3年次には当時の高校歴代4位となる50m98を記録する。国士舘大に進学後は04年の世界ジュニア選手権で5位、06年のドーハアジア大会で銅メダルと国際舞台でも活躍。08年にスズキに入社し、09年には日本人2人目となる60mオーバーを記録。10年の広州アジア大会では日本記録を更新する61m56の投擲をみせ、金メダルを獲得した。


(競技写真提供:スズキ浜松アスリートクラブ)

(石田洋之)
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