163センチの小柄な体が大きな飛躍を遂げたシーズンだった。2010年、東北楽天の内村賢介は自己最多の111試合に出場し、規定打席未満ながら打率.304の好成績を残した。守備でも俊足を生かし、セカンド、ショート、外野と複数のポジションをこなした。
「チームは最下位でしたけど、個人の成績としては満足のいく1年になりました」
 オフの契約更改では年俸も2100万円(推定)にジャンプアップした。
 活躍の要因は打撃面での成長だ。8月10日の埼玉西武戦では1試合5安打の固めうちもみせた。
「(コツを)つかんだとまでは言いませんが、こうすれば打てるというのは分かってきました」
 育成選手として楽天に入団した当時は右打ちだったが、1年目に支配下登録されて1軍に上がると、野村克也監督(当時)からスイッチヒッター転向を命じられた。重いつちのこバットをボールにぶつけ、1塁へ一目散に駆け抜ける。育成上がりのルーキーとしては47試合で打率.289と結果を残した。

 だが、2年目は壁にぶち当たった。小柄なバッターの特徴を理解した相手チームは三遊間を閉め、前進守備を敷いて内野安打を阻んだ。内野の間を抜く強い打球を打ちたい。つちのこバットを捨て、試行錯誤の日々が続いた。チームは初のクライマックスシリーズに進出するも、打率は.162。出場試合数は増えたものの、その多くは代走や守備固めだった。

 打撃向上のベースになったのはBCリーグ・石川時代に金森栄治監督(現千葉ロッテ打撃兼野手チーフコーチ)に教わった理論だ。なるべくボールを引き付けて、腰の回転を使ってはじき返す。自身も170センチと小さな体だっただけに、力を無駄なくムラなくバットに伝えようと編み出した打法である。

 その上で、安部理打撃コーチ補佐(現2軍打撃コーチ)とキャンプからマンツーマンでヘッドがより走るバットの出し方を工夫した。トップの位置からそのままバットを出すのではなく、後ろの脇を空けておき、少し後ろに入れてしならせる。これにより打球に勢いを与えられるようになった。

 バットも09年より短く持った。それまではグリップエンドを一握り分くらい余らせていたのを、昨年はさらに指2本分空けるようにした。その分、バットの長さを1センチ伸ばした。大柄な選手と比べればパワーで劣る部分をいかに補うか。そこに徹底的にこだわった。
「2年目に打てなくて良かったです。早く自分の課題に気づけましたから。そこへちょうど野村監督からブラウン監督に代わる巡り合わせも重なった。野村監督だったら、去年のように自由には打てなかったと思います」

 身長163センチは現役のNPB選手の中では最も小さい。街中を歩いていても雑踏にまぎれてしまう。小学校の頃からクラスの中で2番目に背が低かった。成長期を迎え、ぐんぐんと背を伸ばす友人に対し、内村の身長は160センチそこそこで止まった。「でかかったのは赤ちゃんの時だけだったみたいです」と笑う。

 野球に限らず、スポーツにおいて体格は重要な要素である。小さいより大きいに越したことはない。「これまで小柄な体を恨んだことはないのか」と訊ねると、「それはないですね」とキッパリと言い切った。
「小さいことを短所だとも不利だとも思ったことなんてないですよ。むしろ長所だと捉えています。小さい人には小さい人にしかできない野球がある。スピーディーな動きだったり、小技だったり。いくらプロでも全員がホームランを打て、と言われる世界ではないですから」
 力強い発言に小兵ながら1年目から1軍でプレーしてきた自信が垣間見えた。

 今季から指揮を執る星野仙一監督からは、「赤星(憲広)のようになってほしい」と期待されている。赤星も170センチと決して大きくない体で5年連続の盗塁王を獲得した。阪神には欠かせないリードオフマンだったレッドスターのごとく、内村もスーパースターになってみせる。

(後編につづく)

内村賢介(うちむら・けんすけ)プロフィール>
 1986年3月17日、東京都出身。右投両打の内野手。山梨学院大付属高、JFE西日本を経て07年、BCリーグ・石川に入団。全試合に出場して初代盗塁王に輝き、チームを優勝へと導く。同年秋のドラフトで育成選手として楽天に指名され、BCリーグ出身者として初のNPB選手になった。身長163センチと小柄ながら俊足と守備力を買われ、08年7月に支配下登録。8月に1軍デビューを果たした。その後も代走や守備固めでベンチには欠かせない存在となり、昨季途中からは打撃力の向上もあってスタメン出場が増加。自身最多の111試合に出場した。昨季までの通算成績は220試合、打率.278、30打点、29盗塁。背番号0。

(石田洋之)
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