監督に課された仕事は、さまざまなタレントを適所に配置してチームを作り上げること、そしてもちろん最終的には結果を出すことである。選手起用は采配の最重要ポイントといってよい。
 選手から起用に関して不平が出るチームが好成績を収めることはまずない。
 今季、柏レイソルを初のリーグ制覇、また史上初のJ1昇格初年度優勝に導いたネルシーニョ。かつて、黄金期ともいえるヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の指揮を執っていた時、彼は選手起用について尋ねられると、常にこう語った。
「力を出せる状態にあるかどうか、個々の選手の状態をすべて把握すること」
 調子が上がらなければ、日本代表の選手であっても彼は容赦なくメンバーから外した。選手と徹底的に話し合い、アドバイスを与え、チャンスを待つ選手の期待も裏切らなかった。
 また、インタビューの際に個々の選手の批判は一切口にせず、マスコミが選手の批判を要求することに苛立ちを隠さなかった。

 ラモス瑠偉やカズ(三浦知良)、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史など、タレント揃いであった当時のヴェルディでは、選手のプロ意識も強く、意見の衝突は珍しいことではなかったが、ネルシーニョに関して批判めいた発言は聞いたことがない。あの一言居士のラモスですら「これまで出会った監督の中で最高はネルシーニョ」というのだから……。

 選手が抱える不公平感や妬みといった感情的な問題は厄介である。それは確実にプレーにも現れ、連鎖反応を引き起こす。そして、これは指導者の側に問題があることが多い。基本的な方針がしっかりしておらず、言うことがコロコロ変わる、選手とのコミュニケーションが上手に機能していない、こうしたケースがほとんどである。

 ネルシーニョは、選手個人を歯車に、チームや組織を時計にたとえた。
 強い組織というのは、大きさや役割、ときには形まで異なる多くの歯車で成り立っている。それらの歯車が複雑に組み合わさり、個々の役割を全うすることで、時計が正確に時を刻み始めるのである、と。

 それと同じように、選手はそれぞれまったく違った個性を持ち、それゆえに役割や適性もまた違ったものである。
 役割や能力、価値の違いをいかに余すところなく把握し、時計の如くまとめ上げ、機能させるか。その能力こそが、すなわち指導者の資質であるといえる。

 社会(会社)の歯車――。
 わが国では「歯車」と聞くと、工場のベルトコンベアーなどを思い浮かべてしまう。個性がまったく必要とされない、ローテーション職場。そこには役割の違いはあっても、能力も価値観も評価の対象にはならない。とにかく目の前に流れてくる仕事を機械的に、決められた方法でこなせばよいのだ。あくまで効率をあげることが最優先されるのだ。高度経済成長期の没個性の象徴ともいえるシロモノであった。

 この国では、少なくとも80年代くらいまではそういった組織作りがよしとされてきた。すなわち管理型の発想である。言葉をかえれば「護送船団方式」だ。個性を消し、組織に同化させることで生み出される効率を優先する。効率を上げること自体が目的とされていたのである。

 それゆえ、これまでの日本では組織における個人が見えない社会だと言われてきた。これはトップの人間についても然りである。
日本では指揮官や指導者が「顔の見えない存在」であることが多かった。社長の顔も知らない社員が多数を占めていた。それはこの国の政治もしかりで総理大臣といえば日本のトップといえる立場だが、そのトップがこれほどコロコロ代わる国もそうそうあるまい。

 これでは腰を据えての執務もままならないであろう。どこかの縦縞ユニフォームのプロ野球球団の監督のようなものである。
指揮官が日替わり弁当のメニュー程度にしか尊重されなかったのである。
 工場の例で考えるならば、現在では日本よりも安価な労働力を提供できる国はたくさんある。効率もさることながら、アイデアや創造力といった点でも、日本は後塵を拝するようになっている。

 ネルシーニョの言葉は、こうした組織論のたとえとしてわかり易いものである。いかにそれぞれの個性と能力を見極めて配置し活用するか、つまり適材適所という話である。そして、そこに「適時」を含めて考えるべきであろう。

<この原稿は2001年発売『勝者の思考法』(PHP新書)に掲載された内容を一部抜粋・再構成したものです。>
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