日本のアマチュアボクシング界から届いた久々の朗報だった。
 2011年9月26日から10月8日まで、アゼルバイジャンのバクーで開催された世界選手権。ミドル級の村田諒太が日本人初の銀メダルを獲得したのだ。同選手権で日本人が決勝に進むこと自体、史上初の快挙だった。78年の石井幸喜(フライ級)、07年の川内将嗣(ライトウェルター級)が銅メダルに輝いて以来、3人目のメダリストである。
 この大会はロンドン五輪の予選も兼ねていた。ベスト8に入った選手と、ベスト16で決勝進出者に敗れた2名の合わせて10人が出場権を獲得する。村田は4年前の世界選手権、準々決勝進出まで、あと1勝と迫った試合で、のちにプロ転向するショーン・エストラーダ(米国)に敗れ、結局、北京五輪の出場切符を得られなかった。それだけに、この大会は「ベスト8以上=五輪出場決定」が目標だった。

 前回覇者からの金星

 ロンドン行きをかけた戦いとあって、どの選手も世界選手権には力を入れてくる。ただでさえ、強豪ひしめくミドル級には全階級で最も多い67人がエントリー。トーナメント戦のため、まず64人に絞るための予選が実施された。予選に出るのは抽選で選ばれた6選手のみ。村田は運悪く、その6名に該当してしまったのだ。

 悪いことは重なる。他の選手より1試合多くこなさなくてはいけなくなった上に、勝ち上がった際の対戦相手はアボス・アトエフ(ウズベキスタン)と判明した。07年、09年と世界選手権で2階級制覇を果たしており、同級のランキング1位。上位進出を狙う村田にとっては最も望ましくない組み合わせだった。

「クマみたいに体も大きくて、パンチも軽く打っているだけなのに、すごく威力がありました。これはヤバイなと思いましたね」
 予選を勝利してアトエフへの挑戦権を得たものの、リング上で向き合ってみると強敵だと肌で感じた。試合前からセコンドには「危険な状況になったらタオルを投げる(試合放棄)こともある」と言われていた。もし世界選手権で敗れても、その後のアジア選手権で代表枠を確保する方法もある。今後の戦いに影響する大きなダメージを受けないように、との思いから発せられた言葉だった。

 もちろん最初から負けるつもりでリングに上がったわけではない。対戦までのわずかの時間を利用し、アトエフのボクシングを研究した。何度も試合の映像を観るうち、村田は王者のクセを発見した。
「攻撃はほぼ右フックで終わる傾向がありました。この右で相手を懐に入れないようにしている。ただ、打ち終わりは雑で、その後、連打が飛び出すわけではなかったんです」
 相手の右をしっかりガードし、打ち終わりでカウンターを入れる。接戦に持ち込み、スタミナ切れを待って最終3Rに勝負をかける。勝機を見出すには、これしかないと決心した。

 作戦は見事に当たった。アトエフの強打を防ぎ、パンチを返して1Rからポイントを稼いだ。アマチュアボクシングでは一発のハードパンチより、有効打を細かく重ねたほうがポイントになる。1Rを終えて同点、2R終了時に1ポイントリードと、狙い通りの接戦に持ち込んだ。
「相手のスタミナがキツくなったのが見ていて分かりました」
 ラストラウンド、立ち上がりの相手のラッシュをしのぐと、さすがのディフェンディングチャンピオンも余力が残っていなかった。後は村田が連打を浴びせ、一方的な展開に。レフェリーが途中で試合を止めた。

「自分のボクシングが通じると分かって自信になりました」
 このジャイアントキリングで波に乗り、世界の強豪相手にトーナメントを勝ち上がっていく。村田の良さはスタミナと馬力の強さ。ガードを固めながら前へ出てプレッシャーをかけ、相手が打ち疲れたところへ的確にパンチを見舞う。試合が進めば進むほど有利になるスタイルだ。しかし、これまでのアマチュアボクシングではポイントが試合中もリアルタイムで表示されていたため、リードを奪われると相手に足を使って逃げ切られるケースが多かった。

 快進撃の裏には採点公開のルールが変更になった点も見逃せない。両者のポイントが明らかになるのが、ラウンド終了時のみに限定されたのだ。これではラウンド中に自分がリードしているのか、ビハインドなのかはわからない。いきおい選手たちはよほどの大差がつかない限り、ラストラウンドまで打ち合いを演じることになる。スタミナに一日の長がある村田にとって改正は追い風となった。

 組み合わせもアドバンテージに

 迎えた4回戦、ここで勝てばベスト8に進出し、五輪行きが決まる。顔を合わせたのはシュテファン・ハーテル(ドイツ)。3回戦をアウトボクシングで巧みにポイントを稼ぎ、勝利していた。
「追いかける展開になると思っていたら、立ち上がりからどんどん攻めてきた。ちょっと面喰らいました」
 スタミナのある村田に対し、一気に勝負を仕掛けてきたのだろう。防戦にまわった村田は1R終了時で4−5と1点ビハインドを喫した。

「ここで負けるわけにはいかない。行くしかないと思いました」
 劣勢を跳ねのけ、2Rからは逆に前へ出る。正確に有効打を重ねてポイントを加え、形勢は逆転。最終的には18−15で勝利した。体格で劣る日本人がミドル級で五輪出場権を得たのは96年アトランタ五輪の本博国以来、4大会ぶり。それだけでも十分、快挙だった。

 大きなヤマを乗り越えたことで、さらに村田のパンチは勢いを増す。準々決勝を突破し、準決勝はエスキバ・ファルカン(ブラジル)との対戦。1Rから相手はパンチを回転よく打ち込んできた。
「準々決勝の戦いを観ていて、相手がスピードを生かして飛ばしてくることは予想できていました。だから、1Rはクリーンヒットをもらわないようにしようと思っていました」
 最初は最悪の組み合わせだったトーナメントも、この頃にはアドバンテージになっていた。第1シードだった前回覇者・アトエフのゾーンに組み込まれたことで、村田は常に先に試合ができる状況だった。つまり、勝てば次に対戦が予想される選手たちの試合をその場でチェックできたのだ。対戦相手が1カ月前には決まっているプロとは異なり、アマチュアではトーナメントの勝ち上がりで誰と拳を交えるかは変わってくる。実際に戦ってみないと分からない面もあるとはいえ、参考になるデータは多いほうがいい。

「たとえリードされても3ポイント差なら大丈夫。2Rの中盤あたりからエンジンをかけていこうというプランでした」
 気持ちのゆとりは冷静さを生む。「思ったより相手のパンチが軽い」と分かった1Rの中盤からは早くも逆襲。2R以降は大差をつけ、24−11で日本勢初の決勝進出を決めた。

 世界のトップが見えてきた

 金メダルを賭けた相手は、イェフゲン・キトロフ(ウクライナ)。初戦から次々とダウンを奪い、準決勝も2Rで相手を退けるなど、強打で決勝へコマを進めてきた。それでも1Rは1ポイントリードと幸先のよいスタートを切る。だが3分間戦って、一筋縄ではいかない相手だとすぐに分かった。
「パンチがあるとは思いましたけど、予想以上に強かったです。しかも回転が速くて小さいので打ち終わりも狙えない。ボディも何とかガードしていましたけど、内から真っすぐ突いてくる。気持ち悪いなと感じました」

 インターバル明けの2R、村田は本人曰く「ハリケーンに襲われた」ような猛攻を受ける。
「ヘタに手を出すとやられる」
 まさにパンチの嵐。ガードを固めて防戦一方となり、スタンディングダウンをとられた。打ち疲れを信じて耐えたが、ポイントは14−16と逆転を許した。最終3Rの追い上げも一歩及ばず、22−24。史上初の決勝で金メダルを手にすることは叶わなかった。

「メダルをとって取材も増えましたし、周りの反応が変わってきましたね(笑)」 
 銀メダリストとなり、村田の名前は日本のみならず、世界に知れ渡った。ランキングも大会後は同級2位までジャンプアップ。ロンドンでの活躍が大いに期待される。
「ミドル級は日本人では通用しないと言われていたのが結果を残せた。世界のトップが見えてきましたね」

 日本のアマチュアボクシング界は五輪で長らくメダルから遠ざかっている。金メダルは64年東京五輪のバンタム級で桜井孝雄が獲得した1個だけ。メダリストも68年メキシコ大会のバンタム級で森岡栄治が銅メダルに輝いて以降、ひとりも出ていない。44年ぶりのメダル、いや48年ぶりの金メダルへ――。長く閉ざされた歴史の扉を、26歳の若者が己の拳でこじ開ける。

(後編につづく) 

村田諒太(むらた・りょうた)プロフィール>
1986年1月12日、奈良県生まれ。階級はミドル級。中学1年からボクシングを始め、南京都高時代は高校5冠を達成。東洋大に進学後、04年に全日本選手権初優勝。05年にタイ・キングスカップで準優勝。06年のドーハアジア大会にも日本代表で出場する。07年の世界選手権ではベスト8入りを逃し、翌年の北京五輪出場はならなかった。11年は7月のインドネシア・プレジデントカップで優勝すると、秋の世界選手権で日本人初の決勝進出。優勝はならなかったが銀メダルを獲得してロンドン五輪の出場権を獲得した。これまでの戦績は133戦114勝(88KO・RSC)19敗。身長182センチ。右ファイタータイプ。

(石田洋之)
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