これまで133試合のキャリアを誇る村田の両拳はナックルの部分が大きく膨らんでいる。これこそが激戦を乗り越えてきた何よりの証だ。よく見ると右手の中指は第一関節は中へ折れ曲がったままになっている。
「2年前に試合で痛めました。腱が切れてしまって指が真っすぐにならなくなってしまったんです」
 さらに中指の甲に近い関節は一部が凹んでいた。こちらは高校時代、骨折したことによるものだという。骨が折れたまま試合に出たため、変形してくっついてしまった。
 武元先生との出会い

 ボクシングを始めたのは先生に反抗した一言がきっかけだった。中学1年の時、若気の至りで髪を染めて登校した。もちろん先生からはひどく叱られた。
「オマエ、何か他にやることないんか!」
「あぁ、ならボクシングくらいやったるわ!」
 このやりとりが村田のその後を決めたのだから人生は不思議なものだ。ちょうど通っていた中学の近くにボクシングの強豪、奈良工業高(現・奈良朱雀高)があった。先生は早速、連絡をとり、練習参加を申し込んだのだ。

「走り込みばかりでキツかった。陸上部かと思いましたよ」
 しかし、同時に拳ひとつで闘う競技の魅力にもとりつかれた。当時の奈良工業高には後に世界チャンピオンになる名城信男(六島)がおり、ボクシング部は活気にあふれていた。
「マスボクシングも少しやらせてもらって、すごく楽しかったんです。ボコボコにされましたが(笑)」

 中2の夏休みにも奈良工業高の練習に参加し、中3からは大阪にある進光ジムに通った。そこで日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王座を10度防衛した桑田弘トレーナーに勧められ、高校は南京都を選ぶ。桑田は南京都高のOBでもあった。15歳のボクシング少年は、ここで人生最大の出会いを果たす。南京都高のボクシング顧問・武元前川だ。

「先生は厳しい方でしたが、その指導を通じて可能性は誰にでも広がっていることを伝えてくれました。ボクシングをやっていることに誇りを持たせてくれましたね」
 武元の指導もあり、村田はメキメキと頭角を現す。2年時から選抜大会、インターハイ、国体を総ナメし、最上級生になった翌年も選抜大会とインターハイを制覇。国体の出場権を逃し、粟生隆寛(現WBCスーパーフェザー級王者)に続く史上2人目(当時)の高校6冠こそならなかったが、日本のアマチュアボクシング界に、その名前は広く知られるようになった。

 後輩のために現役復帰

 大学はこれまた名門の東洋大へ。国内から海外へ戦いの場を移し、五輪出場を目指した。だが、層の厚いミドル級戦線で結果を残すのは容易ではない。国際大会では目だった成績を残せない日が続いた。
「自分では五輪に行きたいという夢を持って頑張っているつもりでしたが、どこかで“世界では通用しない”という諦めの気持ちが出ていましたね」
 2008年、アテネ五輪の出場を逃し、村田は一度、ボクシンググローブを置くことを決意する。昼間は母校の学生生活課で職員として働き、夕方からはコーチとして後輩たちにボクシングを教える。リング上で相手と1対1で闘う非日常から距離を置いた日常が続いていくはずだった。

 だが、運命は村田を再びリングへと呼び戻す。翌年、東洋大ボクシング部は元部員の不祥事が発覚し、活動自粛に追い込まれたのだ。
「部員はみんな頑張っていたのに、たったひとりの人間のために大学全体がダメだと見られているのが悔しかったんです。頑張っているヤツのためにも、何とか自分が引っ張りたいと思いました」
 村田は現役復帰を決意する。もともと時間があれば、ノニト・ドネア、マニー・パッキャオ(ともにフィリピン)ら現代の名チャンピオンや、トーマス・ハーンズといった往年の選手まで、「語りだしたら2晩でもいける(笑)」というほどのボクシングマニア。現役を退いてもボクシングへの愛情は全く消えていなかった。闘争心に火がつくと、一度は抑え込んでいた「五輪に行きたい」という思いもメラメラと燃え上がってきた。

 世界選手権の銀メダルで村田は世界からマークされる立場になった。今のままでロンドンでも勝てるほど勝負は単純ではない。それは本人が一番良くわかっている。
「打ち終わりがまだまだ甘いですね。世界選手権でも、そこを狙われていました。ただ、欠点をすぐに修正できるほど器用ではない。スタミナやパンチ力といった良いところを、もっと伸ばしたいと思います」

 今の憧れはプロではない

 五輪の大舞台はボクシング人生の集大成を見せる場だと考えている。現在の心境を26歳は登山に例えた。
「今は目の前の“山”が見えてきた。その山の頂上を狙える立場にいると思っています。100%メダルを獲れるとは断言できませんが、可能性は高まっている。ならば、もう後はやるしかない。結果は後からついてくると信じています」

 果たしてロンドンという大きな山で村田はどんな景色を見るのだろうか。五輪後にプロ転向という新たな山に挑むことはあるのか。その点を訊ねると「可能性はゼロではない」としながら、「今の憧れはプロではない」と言い切った。
「僕が憧れているのは武元先生のような存在です。先生がいなければ、僕はボクシングを続けることも、五輪に出ることもなかったでしょう。先生が“可能性を諦めるな”と教えてくれたように、僕も指導者として教え子の道を切り拓いてあげられる人間になりたいんです」
 五輪への練習の傍ら、大学で仕事をし、後輩を指導する生活は変えていない。ボクシングは大好きだが、「ボクシングバカにはなりたくない」というバランス感覚も、リング上での冷静な試合運びにつながっている。

 村田が目標とする武元は残念ながら、09年12月、50歳の若さで亡くなった。ロンドン五輪は天国の師に捧げるリングでもある。そして、ボクシングを志す後輩たちへ新たな可能性を示すリングでもある。願わくば、両拳を突き上げ、最も見晴らしの良い場所に立てることを望みたい。

(おわり) 
>>前編はこちら

村田諒太(むらた・りょうた)プロフィール>
1986年1月12日、奈良県生まれ。階級はミドル級。中学1年からボクシングを始め、南京都高時代は高校5冠を達成。東洋大に進学後、04年に全日本選手権初優勝。05年にタイ・キングスカップで準優勝。06年のドーハアジア大会にも日本代表で出場する。07年の世界選手権ではベスト8入りを逃し、翌年の北京五輪出場はならなかった。11年は7月のインドネシア・プレジデントカップで優勝すると、秋の世界選手権で日本人初の決勝進出。優勝はならなかったが銀メダルを獲得してロンドン五輪の出場権を獲得した。これまでの戦績は133戦114勝(88KO・RSC)19敗。身長182センチ。右ファイタータイプ。

(石田洋之)
◎バックナンバーはこちらから