2008年の北京パラリンピックで金メダルを獲得するなど、世界の頂点を極めた車いすテニスプレーヤー国枝慎吾。その国枝が発掘した原石が今、ロンドンパラリンピック出場を目指して戦っている。彼の名は「三木拓也」。日本車いすテニス界のホープだ。昨年から大きな躍進を遂げ、日本男子テニス界を牽引する錦織圭とは、奇しくも同じ島根県出身の22歳だ。
「まさに“飛ぶ鳥を落とす勢い”とは、彼のことですよ」
 車いすテニス日本代表コーチを務める丸山弘道も、彼の成長速度の度合いには目を見張る。果たして三木拓也とはどんなプレーヤーなのか――。
「あれ、面白そうな選手がいるな……」
 2010年4月、神戸オープン。国枝の目に、一人のプレーヤーが目に留まった。それがワイルドカードでセカンドクラスに出場していた三木だった。当時、三木は日本ランキング40位台。車いすテニスを始めて1年と経験も浅く、プレーは荒削りだった。いったい世界トッププレーヤーの国枝は、三木のどこに魅かれたのか。
「とにかくサーブが良かったんです。もう、それだけで目につきましたよ。見ていて、『あぁ、この選手は間違いなく近い将来、世界のトップを狙えるな』と、彼の可能性を感じたんです」

 表彰式後、国枝は三木に話しかけた。「一緒にロンドンを目指さないか。もし、本気でやりたいと思ったら、連絡してきて」。そう言って、自分のメールアドレスを渡したという。無論、車いすテニス界の将来を思ってのことだろう。だが、まだベテランの域にも達していない現役の選手が、ライバルになるやもしれない存在に手を差し伸べるなどというのは、決して安易な考えではできないはずだ。国枝は、それだけ三木に感じるものがあったのだろう。

 一方、当の本人はと言うと、憧れの存在である国枝からの突然のスカウティングに、驚きを隠せなかった。
「国枝さんの言葉に、最初は目が点でした。僕はその大会で準優勝だったんです。普通に考えれば、優勝した選手に声をかけますよね。“えっ!? なんで僕なの?”という感じでした」
 しかし、三木はそれから1週間もしないうちに国枝にメールをした。
<ロンドンに行きたいです。ぜひ、よろしくお願いします。>
 三木のロンドンへの挑戦が始まった瞬間だった。だが、それは順風満帆にはいかなかった。何重もの厚い壁が、三木の前に立ち塞がっていたのである。

 初めての自己主張

「3、4年やれば、世界のトップに行く可能性は十分にあるな」
 その日、丸山は1本のビデオを観ていた。そこに映し出されていたプレーヤーに将来への可能性を感じていた。
「ある日、国枝が『コーチ、若手に面白い選手がいるんですよ』と、神戸オープンのビデオを持ってきたんです。観てみると、全体的に荒削りでしたし、動きも遅かった。でも、国枝に聞いたら、車いすテニスを始めてまだ1年だと言うんです。その割には、よくラケットも振れていましたし、ボールさばきにはトレーニングは必要としても、すでに完成されたものは持っていると感じました。ですから、現時点でチェアワークを十二分に練習しておくことで、これはモノになるなという予測がつきました」
 国枝から三木自身、ロンドンを目指したいと思っているという旨を聞いた丸山は、「本人が本気なら、ここに連れてきてトレーニングしたらいいよ」と、自らがコーチを務めるテニストレーニングセンター(TTC)への移転を促した。

 ところが、話はすんなりとはいかなかった。母親は賛成したものの、通っていた神戸の大学を休学してまで、テニスのために単身で千葉へ移り住むという話に、父親が大反対したのだ。それは息子の将来を案じてのものだったことは容易に想像ができる。だが、三木は諦めることができなかった。丸山もまた、できることなら一緒に世界を目指したいと思っていた。しかし、両親の支えなくして成功はない。そこで丸山は、両親と話し合いの場をもつことにした。
「息子さんの夢がかなうよう、私が今までに学んできた技術や経験の全てを出し尽くして共に成長していきます」
 丸山の真摯な言葉と態度に、母・直実は厚い信頼の気持ちを寄せた。
「丸山コーチは、国枝選手をどのように育てられたかを語ってくれました。そのお話を聞いて、丸山コーチがテニス以外の部分まで考えておられ、選手を一人の人間としてきちんと育てていらっしゃる方だということがよくわかったんです。その熱意と誠意に『この人になら、息子を任せられる』と思いました」
 だが結局、その場で父親の同意を得ることはできなかった。

 自宅に帰ってからも、親子、そして夫婦での話し合いが続いた。三木は「どうしてもロンドンに行きたい」と正直な気持ちをぶつけ続けた。その気持ちを大切にしたいと思う母親は、「本人の人生なんだから、親がその可能性をつぶしてはいけない」と父親への説得を試みた。しかし、父親は「親は子どもを守る義務がある。まだ20歳で、判断力に乏しい子どもに助言するのは当然だ」と頑としてきかなかった。どちらが正しくて、どちらが間違っていたわけではない。双方ともに、息子を大事に思っているが故の意見の食い違いだった。しかし、だからこそ、どこまでも平行線を辿り、交わる兆しは全く見えてこなかった。

 結局、最終的に歩み寄ったのは、父親の方だった。父親の気持ちを変えたのは、母親のひと言だった。「どうしてもダメと言うのなら、私一人で拓也を支えます」。この言葉に父親は「期限はロンドンパラリンピックまで。それが終わったら、必ず復学すること」という条件付きで承諾したのだった。一つ間違えば、家族がバラバラになる可能性もあっただろう。それでも母親が息子を応援する姿勢を崩さなかったのは、なぜか。母・直実はその理由を次のように語ってくれた。

「拓也が高校3年の時、骨肉腫という病気が見つかったんです。担当医の先生に言われたのは『5年後の生存率は7割』。もちろん、絶対に治ると信じようとは思いましたよ。でも、やっぱり覚悟もしたんです。その拓也が『パラリンピックを目指したい』と言ってきた。もう、とにかく全力で応援しようと思いましたよ。自分が一番のサポーターになろうと。それに拓也はもともと強く自己主張するタイプではなかったんです。親が『こうした方がいいんじゃない?』という助言を素直に受け入れるという感じでした。ところが、今回ばかりは違いました。どんなに父親に反対されても、絶対に諦めなかった。こんなことは初めてです。それほど本気なんだなと。ですから、なおさら応援したいと思ったんです」

 一方、三木本人は当時のことをこんなふうに語っている。
「両親はどちらも僕に対して『なんとかしてやりたい』という気持ちがあったと思います。それが父は心配の方向に行き、母は応援の方に行っただけなんです。でも、両親が対極的な意見で僕にとっては良かったです。どちらもすんなりと賛成していたら、安易な考えで千葉に来てしまったと思います。父が反対してくれたからこそ、自分自身の意思をしっかり固めて、気持ちを伝えることができたんです。でも、それができたのは賛成してくれた母がいたからです。両親ともに大反対だったら、さすがに押し切るのは難しくなっていたでしょうから。だから、両親には本当に感謝しているんです」
 人生で初めて親の反対を押し切ってまで我を貫き通した三木は、その年の6月、大学に休学届を提出し、千葉県柏市に引っ越した。

 一プレーヤーの前に、一人間であれ

 ロンドンまでは残り2年。のんびりしている時間は、全くなかった。すぐにカリキュラムに沿ったトレーニングが始まった。ところが、いつまで経っても丸山からの指導はなかった。丸山から言われることと言えば、挨拶や礼儀のことばかり。丸山の指導を受けさせてもらえるものだとばかり思って、意気揚々と千葉に行ったであろう三木に、不満や焦りはなかったのか。
「入った当初は『自分は声をかけてもらってここにいるんだし』という甘えた気持ちがあって、当然、丸山コーチに指導してもらえると思っていたところはありましたね。だから、なかなか教えてもらえないことに、正直自分の中で迷いみたいなのが生じていました」

 三木の潜在能力に期待を寄せていた丸山もまた、早く自分の手で指導することを望んでいたという。では、なぜ……。そこには丸山の確固たる信念があった。
「周りから応援されるプレーヤーにならなければ、世界の頂にたどり着くことなどできません。最後は技術ではなく、周りにいる人達を『この人を応援したい』という気持ちにさせたうえで、支持してもらえるかなんですよ。だから私は、まずは人間性の部分でそのレベルに達しなければ、本気で関わっていくことはしません。彼としてみたら『誘ってきたのに、全然見てくれないじゃないか』という気持ちは、おそらくどこかにあったと思います。そこを自分で乗り越えて、成長するようでなければ、世界を狙うなんて無理です。ですから、どれくらいのラーニングスピードで上がってきてくれるかな、と思いながら見ていました。彼のテニスには期待していましたし、早く一緒にテニスがしたいという気持ちはありました。ですから、私自身も我慢の日々だったんです」

 昨年、最後の書き込みとなった12月28日の三木のブログには、次のようなことが書かれている。
<丸山コーチには、テニスに向かう姿勢のほか、人として当たり前の礼儀など、コートの外でのことに関してもいろいろ教えてもらいました。心に響く一発をもらったこともありました。>
“心に響く一発”とは、いったい何があったのか――。

「半年前くらいだったかな。その日、僕は斎田悟司さんの練習相手をさせてもらっていました。でも、自分の思うようなプレーができなくて、ちょっと投げやりな態度をとってしまったんです。世界トップ10の斎田さんと練習させてもらっているというだけで、感謝しなければいけない立場だったのに……。練習後もできなかったことを引きずってしまって、丸山コーチから『ごくろうさん』って声をかけてもらったのに、背中を向けたまま『ありがとうございます』とボソボソッと言ってしまったんです。そしたら、次の瞬間、後ろからガツーンと叩かれました。でも、痛かったのは頭よりも、ここでしたね」
 そう言って、三木は胸に手を当てた。

「いろいろと教えてもらってきたこの1年、自分はいったい何をやってきたんだろう……」
 よほど三木にはこたえたのだろう。彼の態度に変化が生じたのは、それからだった。それは丸山にもはっきりと見えていた。
「彼はその一件以来、すごく謙虚になりましたね。練習態度から変わりました。それがテニスにもいい影響を与えていると思います」
 ようやく丸山から直接指導を受け始めたのは、それからしばらく経ってからのことだった。三木はまた一つ、大きな壁を乗り越えた。


 尊敬する国枝は“憧れ”から“目標”へ

 三木が丸山コーチと同じように尊敬してやまないのが、国枝である。丸山によって、その才能を開花させた国枝は、06年に初めて世界ランキング1位を獲得すると、翌年には車いすテニス界では史上初のグランドスラムを達成。4年前の北京パラリンピックでは男子シングルスで悲願の金メダルに輝いた、いわば世界が認めるトッププレーヤーである。その国枝を初めて見たのは、1年間の闘病生活の最中だった。小学生からテニスに夢中だった三木は、将来もテニスに関わりたいと、トレーナーへの夢を抱いていた。だが、高校3年の秋、骨肉腫という足のガンが発見され、その夢は断たれた。苦しい抗がん剤治療を受けた後、手術で腫瘍を切除、人工関節が入った左足は、思うようには動かなくなっていた。「もうテニスはできない…」。生きる目標を失ったまま、悶々とした日々が続いた。

 そんなある日、三木は「車いすテニス」の存在を知った。すぐにインターネットで調べてみると、一人のプレーヤーの名が目に留まった。「国枝慎吾」。脊髄腫瘍で車いす生活を余儀なくされた彼は、小学6年から車いすテニスを始め、今や「向かうところ敵なし」とばかりにずば抜けた成績を挙げ、世界の頂点に君臨していた。
「車いすテニスを知った時には、もうすがるような思いでした。『また、テニスができるんだ』と嬉しさがこみ上げてきました。とはいえ、あくまでも車いすですから、健常の時のテニスとは、全く違うものなんだろうなと思っていたんです。ところが、北京の決勝のビデオを観たら、もう走って走って、打って、走って……とすごいプレーをしている国枝さんがいました。そのスピードも激しさも、想像していたものよりはるかに上をいっていた。『うわぁ、オレもこれ、やってみたいな』と思いましたね」

 その国枝とは、一度対戦したことがある。昨年4月の神戸オープン。1年前、国枝に声をかけられた大会だ。練習では対戦したことはあるものの、公式戦では初顔合わせ。しかも優勝がかかった決勝での対戦に、三木は興奮を抑えきれなかった。
「1年前は雲の上の存在だった国枝さんとやれるんだと思ったら、嬉しさがこみあげてきたんです」
 コートに入ると、そこにはいつもと違うオーラを放つ国枝がいた。練習では見せたことのない、闘争心をむき出しにしたその姿は、まさに戦いの場に挑むアスリートだった。

 ところが、三木には勝利への執念が湧いてはいなかった。あったのは、この場にいることへの満足感だった。
「本来は、誰が相手だろうと、コートに立ったら対等の立場で戦いに挑まなければならないのですが、その時の僕は国枝さんを尊敬するあまり、嬉しさでいっぱいになってしまったんです。エースを決められても、『次は絶対に返してやろう』ではなく、『うわ、やっぱりすごいな』という気持ちでいたんです」
 国枝の凄みにのまれたこともあり、完全に浮き足立ってしまった三木は第1セット、1ゲームも取ることができなかった。

 さすがの三木も「これではダメだ」と思い直した。第2セットに入る前、これまで書き綴ってきた「テニスノート」を読み返すと、徐々に闘争本能が呼び覚まされた。
「これまで練習してきたのは、試合に勝つためじゃないか、ということを思い出したんです。そのためには、とにかく積極的にいかないとダメだと。国枝さんと試合をしていることに喜ぶのではなく、どうすれば国枝さんからポイントを取れるか。そのことを考えて、第2セットに臨みました」
 第1セットとはまるで違う動きを見せた三木は、しっかりと自分のゲームをキープし、2−2と競り合った。しかし、世界の舞台を数多く経験している国枝は、三木のプレーを見て、すぐに修正してきたのだろう。その後は、再び国枝の独壇場となり、結局、第2セットも2−6で落とし、三木は完敗を喫した。

 改めて世界との差を感じた一戦となったが、試合後の三木はネガティブな気持ちにはなっていなかった。
「スコアとしては離されてしまったんですけど、内容としては悪くなかったんです。ゲームが進むにつれて、ラリーの数も増えていきましたし、ところどころ、しっかりとポイントを取れた場面もありました。あの時持っているものは出し切れたと思うし、まだまだこれからだなという感じでしたね」
 それからは一度も公式戦で対戦していない。いつの日かの再戦、三木はどう戦うのだろうか。
「次こそは、勝負します。車いすテニスプレイヤーである以上、やはり目標は世界一である国枝さんを乗り越えていくことですから。次に同じコートに立ったら、今度は尊敬とか憧れの存在ではなく、対戦相手としてそれまで自分が積み上げてきたものを、全てぶつけ、勝ちにいきます」

 とはいえ、国枝への尊敬の念は昔も今も変わってはいない。三木は遠征時、特に勝負どころとなる大会では、北京パラリンピック決勝の映像を観ることがある。病室で初めて国枝のプレーを観たあの日と同じ興奮を味わい、そして自らを鼓舞するのだという。
「多分、今回の遠征でも観ると思います」
 3月5日から、三木は約1カ月に及ぶ遠征に出ている。遠征前のインタビュー時、三木はそう言って少し恥ずかしそうに笑った。ロンドンパラリンピックの日本代表は、5月に福岡・飯塚で行なわれるジャパンオープンまでのポイントによるランキングで決まる。北京同様、国内上位4人に切符が与えられると見られており、5番目に位置する三木にとっては今回の遠征はまさに正念場とも言える。それだけに、これまで経験したことのないプレッシャーに追い込まれることは想像に難くない。その時、きっと自分の目標を再認識したくなる、三木はそう思ったのだろう。

 国枝が金メダルを獲った瞬間は、いつ観ても鳥肌がたつという。そして、こう自分に言い聞かす。
「自分もこの瞬間を目指してやっているんだ。だから、今日の試合も精一杯、頑張ろう!」
 車いすテニスを始めて、わずか3年。一気に世界の舞台へとのし上がってきたその勢いはとどまるところを知らない。昨シーズンスタート時、147位だった世界ランキングは今、25位にまで浮上している。しかし、ここからが本当の勝負だ。近いようで遠い頂を目指し、三木は今、未知なる戦いに挑んでいる。

(後編につづく)

三木拓也(みき・たくや)プロフィール>
1989年4月30日、島根県生まれ。小学4年からテニスを始め、中学では軟式テニス部に所属。高校では硬式に転向し、3年時にはダブルスで県総体準優勝を果たした。その年の秋、骨肉腫を患い、入院。1年間の闘病生活の間に、車いすテニスの存在を知る。退院後、理学療法士を目指して神戸学院大学に進学すると同時に、神戸車いすテニスクラブに通い始めた。1年後の2010年4月の神戸オープンで国枝慎吾からの誘いを受け、同年6月に千葉県柏市にあるテニストレーニングセンター(TTC)へ。現在、ロンドンパラリンピックを目指し、世界を転戦している。
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