50メートル先にフィニッシュゲートが見えると、4年分の思いがこみ上げた。大歓声に包まれる中、アテネ五輪金メダリストの野口みずき(シスメックス)は泣きながらゴールした。
「走りきれてよかった。またここに帰ってくることができた。応援の声が本当に力になった。あきらめずに私を応援してくれた皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです」
 ゴール後、何度も感謝の言葉を口にし、そのたびに涙があふれた。
 女子マラソンのロンドン五輪代表最終選考会となった3月11日の名古屋ウィメンズマラソン。野口は2時間25分33秒で6位となり、3大会連続の五輪代表の夢は散った。
 それでも「あきらめない気持ち」を存分に示したレースだった。マラソンを走るのは大会新記録で優勝し北京五輪代表を決めた2007年11月の東京国際女子マラソン以来、実に4年4カ月ぶり。レース前は「不安半分、わくわく感半分」(野口)。前半から先頭集団の前方に位置し、一時はペースメーカーの前へ出るなどブランクを感じさせない積極的な走りでレースを牽引。17キロ過ぎ、「左ひざが抜けた感じ」で遅れ始め、25キロ地点ではトップと24秒差まで離れたが、そこから驚異の粘りを見せた。28.9キロ地点、集団に追いつくと、再びトップにも立った。テレビ解説を務めたシドニー五輪マラソン金メダリストの高橋尚子さんが「走りながら4年間のブランクを埋めているよう」と表現したが、まさにそんな走りだった。

 33キロ過ぎ、日本人最高の2位に入った尾崎好美(第一生命)、中里麗美(ダイハツ)らに引き離されたが、ゴール後の野口の口から出たのは前向きな言葉ばかりだった。
「一度離されてからも諦めない走りができた。20キロ以降の方が足がよく動いた。私はマラソンに向いているんだなと。故障せずに前のように練習ができれば、まだまだやれる気がするし、ベスト(日本最高記録の2時間19分12秒)も狙えると思う」
 野口を指導する広瀬永和監督も「レースの中でも足の状態を修正しながら完走してくれた。後半になるほど動きがよくなった。まだまだこれからイケるなと感じた」と手ごたえを口にした。

 北京五輪を左足付け根の故障で欠場して以降も、相次ぐ故障に悩まされた。10年10月、実業団駅伝西日本大会で2年5カ月ぶりにレースに復帰し好走するも、その2カ月後の全日本実業団女子駅伝では3区(10キロ)で区間20位と失速。レース後、左足舟状骨の疲労骨折が判明。さらに11年6月には左臀部の肉離れを起こした。ロンドン五輪に向け、今年1月の大阪国際出場を表明するも、左太腿裏炎症のため欠場し、選考レースを名古屋へスライド。本来の走りを完全に取り戻すためには調整期間が足りなかった。
「スタミナ切れは感じなかった。今までどおり順調に練習ができていたら、ロングスパートもできたかもしれない。ずっと(継続して)走ってきた身体ではない分、少しきつかったなと」
 野口は自らの走りをこう振り返った。失速の原因となった「左ひざが抜けた感じ」は、故障が続いた左足だけに「やっぱりまだちょっと筋力が弱かったのかな」と分析した。

「五輪を逃したのは悔しいし、満足はしていない。でも4年間の努力は報われたなと思います。どれだけ転んでもあきらめずに立ち上がりたい。そこはレースでの走りと自分のマラソン人生が重なる。負けず嫌いなので。何度転んでも絶対立ち上がってやる、と思っています」
 会見の席で野口は力強く語った。

 10年前、この名古屋で初マラソンを走った。そのときのタイムは2時間25分35秒。奇しくも今回のタイムとはわずか2秒差だ。何か運命的なものを感じずにはいられなかった。
「ここからなんだなと。次のステージに上がるために、私はまたここからスタートしたいと思います」
 野口が欠場した北京五輪では、38歳のトメスク(ルーマニア)が金メダルを獲得した。野口は現在、33歳。海外での記録挑戦、世界選手権、16年リオ五輪――第二章の夢は広がる。

松田珠子(まつだ・たまこ)
静岡県出身。大学卒業後、スポーツ関連財団勤務、出版社アルバイトを経て2003年、(株)スポーツコミュニケーションズに入社。スタッフライターとして五輪競技、格闘技などを担当した。08年よりフリーライターとして取材・執筆活動を行なっている。現在は石川県金沢市在住。