ザックVSジーコ――。
14年ブラジルW杯を目指すアジア最終予選の組み分けが決まった。
5大会連続出場を狙う日本代表はオーストラリア、イラク、ヨルダン、オマーンと同じB組に入った。
2位までに入れば、自動的に本大会出場が決まる。3位になった場合はA組3位とプレーオフで対戦し、勝者が南米予選5位とW杯出場権を懸けて争う。
単純に実力だけで判断すればB組は世界ランキング順にオーストラリア(20位)と日本(33位)で決まりだろう。
しかし、何が起きるか分からないのがW杯の最終予選だ。ジーコ率いるイラクが不気味に映る。
日本はイラクに対して、これまで2勝3敗2分けと負け越している。世界ランキング76位の相手だからと言って見下すのは危険だ。
イラクと言えば、忘れられないのが“ドーハの悲劇”だ。94年アメリカW杯出場権を懸けたアジア地区最終予選、日本が最後に対戦した相手がイラクだった。
93年10月28日。ドーハ・アルアリ・スタジアム。2対1と日本が1点リードし、ゲームはロスタイムに入った。
ラストワンプレー。イラクはショートコーナーからのボールをニアサイドへのクロスでつないだ。それをジャファール・オムラムがヘディングシュート。ボールはゴール左下隅に吸い込まれた。搭乗手続きまですませていたアメリカ行きの切符がスルリと手から滑り落ちた瞬間だった。
この年にJリーグは歴史的なスタートを切った。
大功労者が初代チェアマンの川淵三郎(現日本サッカー協会名誉会長)である。
後年、川淵は“ドーハの悲劇”をこう振り返っていた。
「その頃、僕らはよく言われたよ。“野球は9回2死からでも逆転サヨナラホームランがあるから目が離せない。サッカーには、そういう醍醐味がないからつまらない”って。
逆の意味でサッカーの醍醐味を証明してしまった(笑)。これは今になって思うんだけど、あのまま勝ってすんなりアメリカに行くより、出られなかったから余計にあの試合の価値が出たんじゃないかなって。少なくとも日本のサッカーの歴史を考えれば、あの悲劇には価値があった。その後の代表チームの成長に確実につながっていったからね」
華々しくスタートしたJリーグの中心にいたのが“神様”ジーコだった。鹿島アントラーズのファースト・ステージ優勝はジーコの存在なくしてはありえなかった。
しかし、川淵とジーコの折り合いは悪かった。事あるごとに審判に文句を言うジーコを川淵は“Jリーグ3悪人”のひとりと見なし、「スポーツマンらしくない」と切り捨てた。
そんなジーコを、川淵はキャプテン(会長)に就任すると同時に代表監督に指名した。
その理由について川淵はこう語ったものだ。
「ジーコには監督経験がない、本当に大丈夫かという声もあったけど、僕はそうは思わなかった。あれはJリーグができる前のことです。アントラーズはイタリアに遠征し、1対8かなんかで大敗した。そこで監督の宮本征勝が事実上、指揮権をジーコに渡した。それからですよ、アントラーズが生まれ変わったのは……」
だがジーコジャパンは国民の期待に応えられなかった。史上最強と呼ばれたメンバーで臨んだ06年ドイツW杯、ジーコジャパンは、わずか勝ち点1しかあげることができずにグループリーグで敗退した。
批判が集まったのは、初戦のオーストラリアに負け、2戦目のクロアチア戦の前に初のミーティングを開いたことだ。
「なぜ、もっと早くやらないんだ!?」
そんな声に対する川淵の考えはこうだった。
「ジーコにはセレソン(代表)に対する独特の考え方があった。国を代表するチームに対しては細かいことをイチイチ言っちゃいけない、と思っているフシがあった。
ミーティングの件は僕も何度かジーコに言ったんだけど、彼は決して譲らなかった。これは本人の哲学だったかもしれないね」
日本代表監督を退任したジーコはトルコの名門フェネルバフチェの監督に就任。その後、ウズベキスタンのブニョドコル、ロシアのCSKAモスクワなどを経て、昨年8月、イラク代表監督に就任した。
組み分けの結果を見てジーコは語った。
「できれば日本と一緒にW杯出場を決めたい」
因果は巡る、とはよく言ったものだ。
<この原稿は2012年4月6日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>
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