幼少時代から鍛代元気の生活にはベルマーレがあった。試合の日はサポーターである両親に連れられ、平塚のスタジアムに足を運んだ。
「ものごころついた時から、ベルマーレのユニホームを着て、立見席で跳ねて応援するのが当り前でした」
 小学校に入ると、地元のチームでサッカーを始めた。当時の夢はプロサッカー選手になってベルマーレでプレーすること。その“少年”は今年、Fリーグ(日本フットサルリーグ)所属の湘南ベルマーレの一員になった。競技こそサッカーではないものの、彼は今、憧れのクラブでプレーできる幸せを噛みしめている。
 小学1年からサッカーを続けていた鍛代が、本格的にフットサルを始めたのは高校3年の時だ。わずか5年で彼は、Fリーガーへと成長したのである。彼はサッカー時代、特に目立った成績を残していたわけではない。神奈川県や地域の選抜チームへの選出経験も一度もなく、本人が語るように「完全に無名」の選手だった。では、鍛代はなぜ、日本フットサルの最高峰でプレーできるFリーガーになれたのか。そこには、彼の努力はもちろん、数々の巡り合わせがあった。

 きっかけは“サッカーのため”

 2007年(高校3年時)、知人に「フットサルチームをつくろう」と誘われたのをきっかけに始めた鍛代だが、当時はFリーガーになることは考えてもいなかったという。
「サッカーを続けるうえで、何かに役立つかなと考えたんです。というのも、フットサルでは大人と試合ができる。高校の部活では、対戦相手も高校生です。同年代より、フィジカルも経験もある大人とプレーすることが自分の刺激になればいいなと」
ところが、彼のフットサル人生はここから急展開していく。

 当時、主に活動していた場所は茅ヶ崎のフットサル施設だった。そこで鍛代にある“出会い”が訪れる。施設が主催する大会へ出場した時、審判員の中にいた「BOMBA NEGRA」(以下BOMBA)というフットサルチームのメンバーから「一緒にやらないか」とスカウトされたのだ。BOMBAが所属していたのはフットサルの神奈川県1部リーグ。さらに高いレベルで経験を積めると考えた鍛代は「やってみます」とオファーを快諾した。

 だが、BOMBAでのフットサルはそれまでサッカーの延長線上でやっていたものとは違い、“本当の”フットサルだった。鍛代は「一番違いを感じたのはディフェンス(DF)」と振り返る。サッカーはフォワード(FW)の選手が深い位置まで相手を追いまわしてプレッシャーをかけるのが基本。しかし、フットサルでは、むやみやたらにボールを追いかけるとスペースを与えてしまい、コートが狭い分、簡単にゴールまでボールを運ばれてしまう。では、どうすればいいのか。

「原則はマンツーマンDFですね。自分のマークする選手が攻め上がってきたら、対応に行く。その選手が相手陣内にいる場合は、相手の動きを確認しつつ、中央の危険なスペースを埋めるために中寄りのポジションをとります。この“出る”、“絞る”という感覚がBOMBAに入った当初は全くなかったので、DFをする時にどこへ行けばいいのかわかりませんでした(苦笑)」

  また、攻撃面でも戸惑うことがあった。ボールを持っていない時の動きだ。いわゆる“オフ・ザ・ボール”である。
「オン・ザ・ボール(ボールを持っている状態)はある程度、技術があれば問題ない。一方でオフ・ザ・ボールはどこに動けば相手が困るのか、味方が助かるのか。その考えがサッカーとはかなり違いました。サッカーをする時は感覚でオフ・ザ・ボールができていたのですが、フットサルでは感覚だけでは追いつかない。常に味方の指示を聞いたり、考えないと素早いポジション取りができないんです」

 1年目は経験不足ということもあり、レギュラー定着にはいたらなかった。しかし、2年目に入り、DFやオフ・ザ・ボールが徐々に向上し、コンスタントに出場機会を得た。そして、鍛代の中の意識にある変化が起こる。試合に出られるようになったことで、今度は点をとりたという欲が生まれ、ゴールを取るためにはどうしたらいいのかを意識するようになったのだ。今や鍛代の真骨頂となっている“常にゴールを意識するプレー”が出始めたのは、その頃からだ。

 迎えた3季目(2009年)は、常に相手陣内でポジションをとり、ほんの少しでもスペースがあれば味方にパスを要求するようになった。ここで決定力が低ければ、批判を浴びていたかもしれない。しかし、鍛代は結果を残し続けた。全11試合で23ゴールを奪って得点王を獲得したのだ。
「個人タイトルはあまり獲ったことがなかったので、素直にうれしかったですね。ただ、この賞はチームメートのおかげです。僕がボールを持ったらみんな『あいつはシュートに行くから』ということをわかってくれていた。だから、ファーサイドに走ってこぼれ球に詰めてくれたり、フェイントをかけて僕にシュートを打ちやすい状況を作り出してくれたり……。おかげでゴールすることに集中しやすかったですね」

 前年で2部降格したチームの1部復帰はならなかったものの、フットサル選手として大きな自信を掴んだ。ただ、この時はFリーグの舞台はまだ「夢のまた夢」として捉える遠い存在だった。

 コーチとして憧れのクラブへ

 鍛代は高校卒業後、横浜リゾート&スポーツ専門学校に進学した。サッカーの指導者になる勉強をするためだった。
「僕が諦めたプロサッカー選手になる夢を次の時代に託したい。子供たちに自分の知っている事を伝えたいという気持ちがあったので、コーチになろうと決意しました」

 一方で、BOMBAでのプレーも続けていた。そんななか、転機が訪れたのは09年、県2部で得点王を獲得したシーズンのことだった。BOMBAのメンバーのひとりが、ベルマーレの主催するサッカーイベントによく参加していることを知った鍛代は、その選手に「コーチの勉強をしているから、クラブの関係者を紹介してください」と頼み込んだのだ。何とか関係者への面会をとりつけてもらった鍛代は、憧れのクラブでコーチとして働きたいという自分の気持ちをぶつけた。すると、こう言われた。
「アルバイトというかたちだけど、いいかい?」
 答えはもちろん、「イエス」だった。

「自分が好きなクラブに、サポーターとしてだけではなく、スタッフとして関われる。しかもコーチとして。子供たちにベルマーレを好きになってもらいたいし、サッカーもうまくなってもらいたい。それらを伝えることができる役割が僕に与えられているので、すごくやり甲斐があります」

 こうして、鍛代は指導者としてのキャリアをスタートさせた。アルバイトとしてコーチ経験を積み、10年3月に専門学校を卒業すると、スクールコーチとしてベルマーレと正式に契約した。

 プレーヤーとしては専門学校を卒業後もBOMBAで活動していたが、土日にコーチの仕事があるため、公式戦への出場は激減していた。その一方で、仕事の一環で生徒をFリーグの試合に引率する機会が増えていった。そこで彼が目の当たりにしたのは、目を輝かせながらFリーガーのプレーに一喜一憂する子供たちの姿だった。すると、鍛代の胸にある思いが芽生えた。
「自分がFリーガーになったらどうなるんだろう? 子供たちもFリーグでプレーする選手に『ナイスプレーだ』と言われた方が心に響くだろうな」
“夢のまた夢”だったFリーグの舞台。いつしかその考えは「プレーできないことはないだろう」となり、「挑戦したい」という決意に変わっていった。

 Fリーガーになるために、彼は何をしたのか。それはスクールのコーチ職を射止めた時と同様に、自分から動くことだった。クラブの関係者にFリーグに挑戦したいという決意を伝えた。その積極性が実り、トップチームへの練習に参加できることになった。だが、トップの世界はそう甘くない。すぐに「このままでは、Fリーグで通用しない」と弾かれた。しかし、将来性を見込まれ、湘南ベルマーレの下部組織である「P.S.T.C. LONDRINA」(以下LONDRINA)への加入が認められた。

 こじ開けた“F”への扉

 LONDRINAはBOMBAと同じ県1部リーグに属していた。しかし、さすがにFリーグクラブの下部組織のことだけはあった。プレーでの意識の細かさが、これまでとは比にならなかった。
「パス1本にしても、受け手の右足に出すのか、左足に出すのか。強さ、タイミングという部分もすごく気にするんです。あとは戦術のバリエーションも格段に多くなりましたね。ただ、それも完璧に覚えて、確認しなくても実行できることが前提になっているんです」
(写真:(C)SHONAN BELLMARE)

 スピードや基礎技術で見劣りすることは少なかった。だが、LONDRINAの伊久間洋輔監督は「フットサルの特殊な動きができていませんでしたね」と当時を振り返る。特殊な動きとは、どういうことなのか。
「攻撃面でいえば、狭いスペースでパスを受ける時に、フェイクを入れて自分で受けるスペースをつくりだす動きですね。またサッカーでは前線でパスミスしても、自陣のゴールまで距離がありますが、フットサルはコートが狭いので失点に直結してしまう。ですので、ボールを奪われない確実なプレーが求められるんです」

 ただ、伊久間は鍛代の高いポテンシャルも感じていた。それは、ゴール感覚である。たとえば、味方が右サイドを突破してシュートを打った時に、鍛代は逆サイドで流れてくるボールに備えている。シュートがキーパーに当たって跳ね返ったところにも、必ずポジションをとっている。これらは教えられても簡単にできることではない。鍛代の生まれ持った武器だった。

 また、鍛代の長所として、伊久間は“人間性”をあげる。
「厳しい言葉をかけると、すぐにふてくされてしまう選手もいます。しかし、彼は素直に受け止めることができていました。ですから、私たちスタッフが教えた戦術や動き方を吸収するのも早かったですね。だからこそ、1年でトップに昇格できたのでしょう」

 1年目から鍛代は、持ち前のゴールへの貪欲さから得点を量産した。結果は11試合、14得点。見事に2011年神奈川県1部リーグの得点王に輝いた。
「目標は小田原アリーナ(ベルマーレの本拠地)でプレーすること。LONDRINAで結果が出せないようでは、そのコートに立つことはできないと思っていました」

 今年3月、鍛代はベルマーレのクラブ関係者との面接に臨んだ。かけられた言葉は「ぜひ一緒に仕事をしたい」だった。彼は「お願いします!」と即答した。夢が叶った瞬間だった。結果を聞いたスクールの生徒や保護者からも「元気コーチおめでとう!」と祝福された。
「いやあ、嬉しかったですねぇ……もちろん終わりじゃないですけど、ひとつ目の目標はクリアしましたね」
 
 高3の時、知人に誘われなければ、そしてBOMBAにスカウトされていなければ、Fリーガー・鍛代元気は存在していなかったかもしれない。彼はいい巡り合わせのなかにいた。もちろん、自ら積極的にチャンスをつかもうとしたことも、夢を叶えた大きな要因だろう。次の目標はFリーグのコートに立つこと――。迎えた第3節(6月22日)、彼はFリーガーとして“元気”な一歩を踏み出すことになる。

(後編へつづく)

鍛代元気(きたい・げんき)プロフィール>
1989年11月5日、神奈川県生まれ。サッカー歴は真土イレブンズ―FC湘南大磯―大磯高―横浜スポーツ&リゾート専門学校。07年にフットサルを始める。BOMBA NEGRA―P.S.T.C. LONDRINAを経て、今季から湘南ベルマーレに加入。デビュー戦でゴールを決め、第9節ではハットトリックを達成。また、10年から湘南でサッカースクールのコーチとしても働いている。一瞬の速さで相手の背後をとるプレーが武器。身長178センチ、体重62キロ。背番号15。

(鈴木友多)

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