水泳、ラグビー、サッカー、野球――小学生の頃から金子侑司の生活は、まさにスポーツ漬けだった。当時、最も熱中していたのは野球ではなく、ラグビーだった。
「思い切り走り回れて、スピード感のあるラグビーが一番楽しかったですね」
ところが、中学に入る際に彼が選択したのは野球だった。理由は自分自身を冷静に見つめてのことだった。
「その頃の僕は体が小さくて、細かったんです。だからラグビーではよく骨折したりしていました。それで中学に入る時に『もう、ラグビーでやっていくのは無理やな』と。自分には野球の方が向いていると思ったんです」
 12歳の少年が下した決断が、10年後、プロ野球への扉を開く第一歩となったのである。
「随分と悩んではいたみたいですが、私はラグビーではなく、野球を選ぶかなと思っていました。体が小さかったこともありましたし、野球の方がセンスがありましたからね」
父親の正祐、小学生の時から息子のセンスを感じていたという。
「手前味噌にはなりますが、客観的に見ても、全てのプレーにセンスがあるなと感じていました。というのも、教えてもいないのに、野球がわかっているなと。例えば、守っていても“こういうことを相手がしてきそうだな”とか“こういうところに打球が飛んできそうだな”とか、そういうことを感じ取れる“嗅覚”が優れていましたね」

 中学に入ると同時に野球一本に絞った金子は、3年の頃には“俊足巧打”の選手として京都府内では注目選手の一人となっていた。平安や北嵯峨といった府内屈指の強豪校からも推薦の話があったが、金子が選んだのは立命館宇治だった。その理由とは――。
「高校でも野球を続けたいとは思っていましたが、特に甲子園は目指してはいなかったんです。だから練習がしんどそうな所は嫌だなと(笑)。立命館宇治に決めたのは、校舎がビックリするほどきれいだったので、ひと目見て『あ、いいな』と思いました。聞けば野球部も前年のセンバツに出場しているということだったので、迷わず決めました」

 中学時代、府内では強豪校の一つであったチームでレギュラーを張っていた金子には、少なからずやっていける自信があったことだろう。不安はほとんど感じていなかったに違いない。ところが、金子は初日にして“高校野球”の厳しさを知ることになったのである。
「ポール間ダッシュを、もう何本も何本もさせられたんです。正直、自分には高校野球は無理だと思いました。初日で本気で辞めようと考えたほどです」

 その後も毎日帰宅すると、金子は家族に「辞めたい」という言葉を漏らしていたという。「楽しいはずの野球が、こんなに辛いとは……」。そんな気持ちだったのだろう。それでも「一度入ったのだから、とにかく最後まで頑張ろう」と自らを鼓舞し、グラウンドへと足を運んだ。

 すると、間もなくして金子にアクシデントが起こった。初めて紅白戦に出場した際、足を剥離骨折してしまったのだ。いわゆる疲労骨折で、安静が求められた。結局、そのまま夏の大会が終了するまで金子はグラウンドに復帰することはできなかった。しかし結果的に、このケガが彼を救ったとも言えた。
「正直、練習しなくてよかったので、内心では喜んでいました(笑)。でも、やっぱり試合を観ていると、ウズウズしていましたね。早く野球をやりたいなと。もし、ケガをしていなかったら、本当に野球が嫌いになって辞めていたかもしれません。でも、ケガをして、野球がやりたいと思うことができた。自分にとって、それは大きかったですね」

 リベンジを誓った平安戦

 金子は2年になると、ショートのレギュラーに定着した。その年、夏の府大会初戦でシード校の峰山にコールド勝ちを収めた立命館宇治は、2回戦、3回戦もコールドで勝利するという快進撃を見せた。だが、4回戦で好投手の中村憲(現・広島)擁する京都すばると対戦し、3−6で負けてしまった。敗因は守りのミスにあった。内野でのエラーは5つを数え、そのうち3つは金子だった。

 その日グラウンドに戻ると、金子に指揮官から雷が落ちた。
「ビビってるんやったら、辞めろ!」
 その年の春に監督に就任したばかりの卯瀧逸夫は、金子に大きな期待を寄せていた。
「彼は何でもちょっとやれば、普通の子よりもできてしまう。だから、練習でも限界まで追い込むようなことはしなかったですね。しかし、だからこそ、競ったゲームになるとミスをしてしまうんです。彼は努力さえすれば、もっと伸びると思っていましたから、覚悟をして取り組んでほしいと。そういう気持ちがあるかを確かめたかったんです」

「ちょっと考えてみます……」
 金子はひとまず監督の言葉をじっくりと考えてみることにした。その場の雰囲気に流されないところが、いかにも金子らしい。約1時間後、金子は監督に「やります」と告げたという。
「やっぱり悔しくて、このままでは終われないなと思ったんです」
 金子の中で野球に対する気持ちが少しずつ変わろうとしていた。

 芽生え始めていた闘志に火をつけたのはその年の秋の大会だった。センバツ出場をかけて行なわれる秋季府大会準々決勝の平安戦、立命館宇治は惜しくも延長14回の末に7−8で負けを喫した。立命館宇治にとってはタダの敗戦ではなかった。審判の判定について3度も抗議を行なっていたのである。
「相手のファウルだと思った打球がホームランと判定されたり、自分たちの犠牲フライが三塁ランナーのタッチアップが早かったと認められなかったり……と、もう散々でした。だから、僕たちにしてみたら、絶対に勝っていたはずの試合だったんです」
 その後、平安はセンバツの切符をつかみ、そのセンバツではベスト8進出を果たした。

“打倒・平安”――。チームは一丸となって、夏でのリベンジを誓った。そしてこの時、金子自身の気持ちも大きく変化していた。
「その時からです、僕が本気で甲子園を目指し始めたのは。自分たちの学年なら、絶対に甲子園に行けるという自信もありました」
 ところが、金子たちの前にもう一つ大きな壁が立ちはだかった。

 翌春、春の府大会に臨んだ立命館宇治は、順当に準決勝に進出した。しかし、その準決勝で福知山成美に2−6で負けを喫してしまう。
「正直、平安よりも強いなと思いました。甲子園に行くには、成美を倒さなければいけないことが、この時わかったんです」
 夏に向けて、気が引き締まる思いがした。しかし、「甲子園に行ける」という自信は少しも揺らぐことはなかった。

 初めて本気で狙った甲子園

 だが、立命館宇治にアクシデントが起きたのは、5月のことだった。エースが肩を故障してしまったのだ。1カ月半、様子を見たが、7月に入っても復帰できる見込みはなかった。そこで監督の卯瀧は決断をした。中学時代にピッチャー経験があるキャプテン中野翔にマウンドを託したのだ。
「実は新チーム発足直後に野手の何人かに投げさせたことがあったんです。その時に一番良かったのが中野でした。真っすぐは140キロ近くありましたし、低めのスライダーはキレがありました。何よりもコントロールが良かったんです。その時から、中野もピッチャーとしていけるかな、という思いはありました」

 即席のエースは指揮官の期待に見事に応えた。初戦(2回戦)から4安打3失点で完投すると、3回戦、4回戦、準々決勝では21回を投げて無失点という好投を披露。完璧にエースとしての役割を果たした。そして迎えた準決勝、相手はあの平安(この年の4月から龍谷大平安に名称変更)。この試合もがっぷり四つの展開となった。

 終盤、試合の流れを引き寄せたのは、金子の“足”だった。2−3と1点ビハインドで迎えた7回裏、1死無走者で打席に立った金子は、フルカウントからの低めに沈むカーブをうまくすくい上げた。勢いよく飛んだ打球は、レフトフェンスを直撃した。すると金子は二塁を回り、三塁へと向かったのだ。この走塁にベンチから見ていた卯瀧は驚いていた。
「三塁は無理だろうと思っていたら、金子が迷わず二塁を蹴っているんです。三塁コーチャーもグルグルと勢いよく腕を回していました。『えっ!?』という感じでしたよ」

 実は二塁に到達する直前、金子がレフトを見ると、フェンスに当たった打球は左翼手が構えていた方向とは全く別の所に跳ね返っていたのだ。それを見た瞬間、三塁へ行けると判断したのだという。ふと見ると、三塁コーチャーもグルグルと回している。「よし、行ける」と確信した金子は、その勢いで三塁をも回り、同点となるランニングホームランを叩き出したのだ。

「金子以上に嬉しそうだったのは、三塁コーチャーでしたよ。ニコニコしながらベンチに帰ってきて、こちらは何も聞いていないのに、『行けると思いました!』って(笑)。よっぽど嬉しかったんでしょうね。ホームでのタイミングはギリギリでしたが、試合の流れ的には、あの走塁は正解でしたね。その後に、ポンポンと5連打で2点を追加して勝ち越しましたから。金子のホームランは大きかったですよ」
 9回には1点に迫られたものの、なんとか逃げ切った立命館宇治は、約8カ月前のリベンジを見事に果たし、26年ぶりの決勝へとコマを進めた。

 案の定、甲子園への道の最後に立ちはだかっていたのは福知山成美だった。金子は準決勝で平安にリベンジした自分たちの勢いの方が勝っているだろう、と感じていた。だが、ここまでほぼ一人で投げてきたキャプテン中野の右肩は限界にきていた。初回、2死からヒットとエラーで一、三塁とした福知山成美は、そこから4連続タイムリーを浴びせ、一挙5点を先制。いきなり試合の主導権を握った。

 ようやく3つめのアウトを取り、ベンチに戻ってきた立命館宇治ナインは、「まだ初回。1点ずつを取りにいこう」と鼓舞し合った。しかし、初回2死二塁、2回は1死一、三塁と得点のチャンスをつかむも、一人のランナーも返すことができなかった。4回を終えた時点で、1−8。その後も劣勢状態は変わることはなかった。それでも金子は最後の打者がアウトになるまで、決して諦めることはなかった。

 2−8。立命館宇治はあと一歩のところで26年ぶりの甲子園には届かなかった。だが、目の前で相手ナインが喜びを爆発させている時も、福知山成美の校歌が流れている時も、金子の目に涙は一切なかった。その理由を金子はこう語っている。
「高校野球に悔いがなかったからだと思います。3年間、やれることはやりましたし、自分では本当に頑張ったと思うので、自然と涙は出てこなかったですね」

 当時、既にプロのスカウトから注目されていた金子だったが、プロ志望届は出さなかった。
「正直、迷いはありました。自分としては『行けるんやったら、今、行った方がいいんちゃうか』という思いはあったんです。でも、監督と話をさせてもらう中で、今の実力で行くよりも、大学に行ってレベルを上げてから行こうと」

 そして今年、埼玉西武から3位という高評価でプロ入りを実現させた金子。もちろん、本当の勝負はプロに入ってからである。
「タイトルがバンバン獲れるような選手になることも大事だとは思いますけど、それよりもたくさんの人に応援してもらえるような選手になりたいですね」
 西武ドームに“金子”の名前が鳴り響く日を両親も恩師も待ち望んでいる。

(おわり)

金子侑司(かねこ・ゆうじ)
.1990年4月24日、京都府生まれ。小学1年からやっていた水泳、ラグビーに加えて小学5年から野球を始める。中学時代は硬式野球チーム「京都ライオンズ」に所属。立命館宇治高校に進学し、3年時の夏には府大会決勝に進出した。立命館大学では1年春からベンチ入り。1年秋、2年春には日本代表候補の合宿に参加し、3年夏の日米大学野球選手権では初めて日の丸を背負う。50メートル5秒8の俊足をいかした走塁が武器。178センチ、67キロ。右投、両打。

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(斎藤寿子)
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