身長152センチと、小柄ながらスケートリンクの上では大きな存在感を放つ。その一方で氷上から離れれば、人懐こい笑顔で周囲の空気を和らげる。桜井美馬(早稲田大学)、スケートのショートトラック日本代表である。1周111.12メートルのトラックを4人から6人が滑り、速さを競うショートトラック。1周400メートルのスピードスケートに比べて、コーナーを回る頻度が多いのが特徴だ。加えて1度に滑る人数が多いため、接触や転倒が頻繁に起き、“氷上の競輪”と呼ばれる駆け引きが魅力の競技だ。日本のショートトラック界は、長野五輪以降、メダリストが生まれていない。女子に限って言えば、未だゼロである。2014年、ロシアで行われるソチ五輪で、それを打破できそうなのが、女子3000メートルリレーだ。桜井はその中心メンバーのひとりである。


 大阪府堺市生まれの桜井がショートトラックと出合ったのは6歳の時だ。彼女は近所の臨海スポーツセンターにあるスケート場に週に1回通い、フィギュアスケートを習っていた。そのリンクで指導していた臨海スピードスケートクラブの神野良則に誘われ、同クラブに入った。初めて見た時は面食らったものの、絶叫マシンが好きだと言う桜井にとって、銀盤を華麗に舞うフィギュアスケートではなく、最後まで何が起こるかわからないスリル満点のショートトラックという競技に夢中になるのに、そう時間はかからなかった。また同クラブの指導方針は子供がスケートを楽しむことに重きを置いていた。そうした側面もあり、桜井はショートトラックにハマった。

 目標に出合い、目指した場所

 ある日、桜井は他の子供たちと一緒にトラックの内側で滑る練習や、転ぶ練習を行っていた。その時、桜井たちのまわりをビュンビュン滑るある女性スケーターに、いつのまにか目を奪われていた。神野由佳――。のちにソルトレイクシティ、トリノ五輪に出場し、日本のトップ選手となるスケーターだった。実は桜井をショートトラックの道に誘った神野コーチの娘でもあった。桜井は神野由に憧れを抱くようになり、オリンピックを目指す9歳上の“お姉さん”の背中を追いかけながら、自身もオリンピックという大舞台に憧れを抱いていった。高い目標がすぐそばにいたおかげで、素質に磨きがかかり、小学校5年生の時にはジュニアの下の10〜14歳を対象とした全日本ノービス選手権大会で優勝した。

 当時を知る臨海スピードスケートクラブの監督、石谷治はこう語る。「小さい頃からエッジ(スケート靴のブレードの氷に面している部分)を滑らす技術や体重移動を氷にうまく伝えるのが上手でした」。これは持って生まれたバランス感覚に依るものが大きいという。そして石谷にとって最も印象的だったのは、桜井が常に笑顔で滑っていたことだ。順位云々よりもスケートを楽しみながら、滑っている子は他にもいた。ただ、彼女のように結果も出しながら、スケートを楽しんでいることが前面に出ている選手は珍しかった。中学校1年生で全日本ジュニア選手権に出場するなど、数々のトロフィーやメダルを手にした桜井は、2年生でジュニアの強化選手に選ばれた。さらに全日本選手権で20位以内に入るなどシニア相手にも十分通用するところを見せた。

 順風満帆にきていた桜井だったが、3年生になると壁にぶつかった。結果が思うように出なくなったのだ。「このままじゃ、私はオリンピックに出られない」と、桜井は危機感を覚えた。そこで日本代表のコーチを務め、憧れの神野由が師事する柏原幹史に指導を受けたいと思い立った。神野由を通じて、柏原とは会っており、合宿などにも参加していた。その短い期間でも得たものは多く、きちんと指導を受ければ、それ以上のものが得られると確信していた。桜井は生まれ育った大阪を離れ、柏原のいる東京への留学を決意した。

 桜井は柏原にコーチングを直訴した。しかし、彼女はまだ15歳。「生活面までは目を配れない」という理由で、柏原はその申し出を断った。それでも「東京に行くしかない」と覚悟を決めていた桜井は諦めない。だが柏原は頑として首をタテには振らなかった。彼女の一途な思いが結実したのは、1カ月以上が経ち、3度目に頼み込んだ時だった。偶然にも柏原が経営する工務店の近くのアパートの一室が空き、私生活の面倒も見る環境が整った。さらに桜井の熱意に柏原の家族が打たれた。周囲からの説得もあり、柏原はついに翻意したのだった。桜井が住むことになった部屋はかつて、神野由の他にも田中千景など、五輪を経験し、日本女子ショートトラック界を代表する面々が住んでいた出世部屋でもあった。
(写真:数々の日本代表選手を育てた柏原強化副部長)

 受け取ったエースの襷

 こうして桜井は東京の武蔵野高校に入学し、日頃から柏原の指導を受けられるようになった。毎日が練習で、スケート漬けの生活は過酷だったが、「オリンピックに行くために」という思いが彼女を支えた。また、さまざまな練習メニューを知り、毎日が新鮮で楽しかった。憧れの神野由の傍で練習をし、レベルの高い指導を受けるという最高の環境で桜井はグングン成長した。高校3年生で、桜井はついに全日本選手権での総合優勝を果たした。神野由は2位と、初めて憧れの存在に大会での成績で上回り、日本一になった。「神野さんを抜きたいという思いしかなかった」と、真っすぐな思いが神野由の6連覇を阻止した。それは日本女子ショートトラック界が世代交代をした瞬間でもあった。

 その後の代表の遠征では、神野由と同部屋になった。初めての海外だったが、神野由に他国の選手の情報やレース展開の仕方などを教わった。その他にも「私が一番年下だったので、やるべき仕事や、部屋での過ごし方など、本当に色々なことを教わりました」と桜井が振り返るように、競技以外の部分でもサポートしてもらった。そして神野由はそのシーズン限りで現役を引退した。彼女はエースの襷を桜井に託そうとしたのかもしれない。

 この頃、長野五輪以来、メダル獲得がなく日本のショートトラック界は男女ともに低迷していた。そこで日本スケート連盟は韓国人コーチの招聘を決意する。韓国は2006年のトリノ五輪では全8種目中6種目での金メダルを含む計10個のメダルを獲得しており、もはやショートトラックは韓国のお家芸となっていた。08年7月に長野五輪の5000メートルリレーで銀メダルを獲得した金善台が日本代表の強化コーチに就任。金コーチの教えは、スケーティングの際、重心を後ろに持っていくというものだった。

 それまでは足先に重心を乗せるのが、日本では常識だったため、早稲田大学に進学していた桜井を含め選手たちは戸惑った。さらに言葉の壁などもあって、コミュニケーションも円滑とはいかなかった。桜井は、この年の全日本選手権で3位に終わり、伸び悩んだ。それでもオリンピックという憧れの舞台への強い思いが、桜井を奮い立たせた。
(写真:スタートで構える桜井<中央>)

 翌09-10シーズン、オリンピックイヤーを迎えた。桜井は大学を休学し、これまで以上にスケート一本に打ちこんだ。練習を積み重ねていくことで、迷いを振り切っていった。09年9月の全日本距離別選手権では500メートル、1000メートル、1500メートルの3種目で優勝した。3冠女王に輝いたのは、神野由以来の快挙だ。12月には全日本選手権を2年ぶりに制し、数カ月後に控えたバンクーバー五輪への切符を手にした。

 桜井は日本女子ショートトラック界の若きエースとして、憧れの舞台に立つことになった。「期待されることがパワーになる」と語るなど、プレッシャーの強さには自信があった。しかし、20歳のニューヒロインを待っていたのは、厳しい現実だった――。

(後編につづく)

桜井美馬(さくらい・びば)プロフィール>
1989年6月8日、大阪府生まれ。6歳でショートトラックを始め、数々の大会で優勝。中学卒業後、親元を離れ東京へ。武蔵野高3年時に全日本選手権で初の総合優勝を達成する。早稲田大学に進学後、2009年に全日本距離別選手権で3冠を達成、全日本選手権でも総合優勝を果たし、翌年のバンクーバー五輪に全4種目に出場。3000メートルリレーでは7位入賞を果たす。10-11シーズン、W杯では1500メートルで2個の銅メダルを獲得、11年のアジア冬季競技大会でも同種目で3位に入った。今シーズンは距離別選手権で3年ぶりの3冠を果たした。W杯では3000メートルリレーのメンバーとして、4戦連続メダル獲得に貢献した。ソチ五輪で日本女子初のメダルが期待されている。身長152センチ。

(杉浦泰介)


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