北海道出身の鍵谷陽平にとって、地元球団からの指名は最高の結果だった。北海道日本ハムが東京から札幌へと本拠地を移したのは、鍵谷が中学生の時。今やファンの熱狂ぶりは12球団の中でも1、2位を争うほどの、“おらが町の球団”となった日本ハム。鍵谷もまたファンを大切にする同球団に憧れを抱いていたという。その一員となることが、鍵谷にとって何よりの喜びである。今度は自らが地元ファンを笑顔にするつもりだ。
―― 地元球団からの指名について。
鍵谷: もう、すごく嬉しかったですね。自分自身、札幌に移転してきた時から応援していたチームでしたし、何と言っても自分の周りの人たちがみんなファイターズファンばかりなので。

―― 日本ハムのイメージは?
鍵谷: 正直、以前は北海道民にとって、野球という文化は少し遠い存在だったと思うんです。でも、日本ハムが移転してきて、しかもすごくファンを大事にする球団なので、道民にとってプロ野球が身近に感じられ、球児たちもプロを目指すようになりました。ですから、日本ハムの移転は北海道の野球界を活気づけた大きなきっかけになったんです。

―― 球団から期待されている点は?
鍵谷: 大卒ですので、即戦力として1年目から一軍での活躍が求められていると思います。先発、中継ぎ、どのポジションになるかはわかりませんが、与えられたところでしっかりと一軍で活躍できるように、頑張りたいと思います。

―― 理想とするピッチャー像は?
鍵谷: 勝てるピッチャーになりたいと思っています。勝ち星うんぬんというよりも、とにかくチームの勝利に貢献できるピッチャーを目指しています。

―― 対戦してみたいバッターは?
鍵谷: 中村剛也(埼玉西武)さんです。日本を代表する、他にはいない特別な存在だと思いますので、対戦してみたいですね。

 人生を変えた高校時代

 小学校時代はスキー、水泳、陸上を掛け持ちし、根っからのスポーツ少年だった鍵谷。しかし、彼にとって何よりも野球が一番だったという。その鍵谷が投手となったのは、小学5年の時だった。遊びでさえも投手をクビになるほどノーコンだった鍵谷。はじめはやる自信は全くなかったという。だが、いざやってみると、鍵谷の潜在能力が開花。その後の活躍へとつながった。

―― 内野手からピッチャーに転向したのは?
鍵谷: 小学5年の時に、ある日突然、監督から「ピッチャーをやってみろ」と言われたんです。ピッチャーだけは向いていないと思っていたので、非常にビックリしました。というのも、遊びでピッチャーをやったことがあったのですが、あまりにもストライクが入らなくて、ピッチャーをクビになったんです(笑)。ただ、肩はそれなりに強かったので、それで監督はピッチャーをやらせようと考えたんでしょうね。「無理だろう」と思いながらやってみたら、これが意外に投げられたんです。

―― これまでの野球人生で一番印象に残っている試合は?
鍵谷: 高校3年の夏に出場した甲子園での試合です。1回戦で東邦高(愛知)に10−15で負けました。7回途中まで投げて14安打12失点と、エースの僕が打たれたことが敗因だったので、本当にみんなに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、誰も責める人はいませんでした。それどころか、「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」と言ってくれたんです。それがもう、嬉しくて……。その言葉があったからこそ、「このままでは終われない。野球を続けなければ」と思えたんです。

―― 7回途中で降板した時の気持ちは?
鍵谷: ショックが大きすぎて、ほとんど記憶にないんです。ただ、「なんでこうなってしまったんだろう」という思いだけがありました。でも、まだ試合は終わってはいませんでしたから、自分のピッチングについてはひとまず忘れて、その後は夢中で声を出していましたね。試合後のことも、あまり記憶に残っていません。ただ、覚えているのはチームメイトがベンチ前で泣きながら「ありがとう」と言ってきてくれたこと。それ以外は、覚えていません。

―― 自分にとって高校野球とは?
鍵谷: 自分は高校で人生が変わったと思っています。それまでは、今思うと、わがままで、人間的にダメでしたね。中学時代は努力もしていなかったし、仲間も大切にしていなかったと思うんです。でも、高校に入って、仲間の大切さだったり、頑張ることの楽しさを覚えました。自分が悩んでいると、みんな親身になって声をかけてきてくれるんです。野球部に限らず、学年のみんながそうでした。

 成長促した指揮官からの言葉

「鍵谷陽平」の名が、スポーツ紙上をにぎわせたのは、大学2年の秋。リーグ戦での青山学院大戦でリリーフ登板した鍵谷は、自己最速の152キロをマーク。隠れていた実力が開花した瞬間だった。実は、この前日、鍵谷は高橋善正監督(当時)から叱咤激励を受けていた。彼の潜在能力を呼び覚ます要因となった言葉とは――。

―― 自らの成長を感じた試合は?
鍵谷: 自己最速の152キロを出した大学2年の秋、青山学院大戦です。2−2で迎えた延長15回、1死満塁の場面でマウンドに上がったのですが、きっちりと2人で抑えました。そのまま同点となって再試合にもつれこんだのですが、それ以降、高橋監督に勝ち試合で使ってもらうようになったんです。皆さんからも注目されるようになるきっかけとなりましたし、自分にとって本当に大きな意味を持った試合です。

―― 高橋前監督から教わったことは?
鍵谷: 気持ちの面ですね。実は、152キロを出した前日にも投げていて、この時は結果を残せませんでした。負けている状態での登板だったのですが、さらにホームランを打たれてしまったんです。自分では調子がいいと感じていただけに不思議に思っていました。そしたら、その日の夜、お風呂場で監督とすれ違った際に「オマエは試合中に感情が表に出ない。もっと気迫を前面に出して投げてみろ。そうすれば、何か自分の中で変わってくるはずだ」と言われました。それで、翌日からはいいボールがいったら叫んだり、とにかく素直に感情を出すようにしたんです。当時、エースだった澤村拓一さん(巨人)と山崎雄飛さん(東京ガス)がケガをしていたのですが、それでも2人ともリリーフで投げていたんです。ですから「この試合は絶対に負けられない」と燃えるものがありました。それもあって、ああいうピッチングができたんだと思います。

 紆余曲折を経ながらも、着実に成長し、結果を残してきた。その鍵谷が再び北海道を本拠地とする。地元の球児たちにとっては、憧れの存在である。日本ハムは昨季、栗山英樹監督が就任1年目ながら手腕を発揮し、大混戦の中、3年ぶりにリーグ優勝した。だが、日本一へはあと一歩及ばなかった。それだけにファンは「今季こそは」と願っていることは間違いない。そのファンの期待に応えるべく、鍵谷は1年目から1軍での活躍を目指す。

鍵谷陽平(かぎや・ようへい)
1990年9月23日、北海道生まれ。小学1年から野球を始め、5年時に内野手から投手に転向した。中学時代はエースで4番として活躍。北海高では1年秋からベンチ入りし、3年夏には同校として9年ぶりとなる甲子園出場に大きく貢献した。中央大では2年春からリーグ戦に出場し、同年秋には最速152キロをマークした。通算成績は37試合に登板し、7勝9敗、防御率1.94。177センチ、80キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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