オリンピックには魔物が棲んでいる――。修羅場をくぐり抜けてきたトップアスリートでさえ、4年に1度の大舞台に飲み込まれてしまうことがある。バンクーバー五輪に臨んだ若干20歳の桜井美馬にとってもそうだった。彼女が憧れの場所に立ち、味わった経験は、甘美なものではなかった。長野五輪でヘッドコーチ、ソルトレイクシティ、トリノ五輪では監督を務めた川上隆史はこう語る。「私はオリンピックを3回経験させてもらいましたが、私自身もわからないんですよ。“オリンピックってなんだろう?”って。やっぱり1回じゃ、わからない。2回目以降でようやくわかって、勝負かなって思うぐらいです。初めてのオリンピックは舞い上がりますから」
 ブレードとともに折られた自信

 桜井は、大会前の会見で「オリンピックの舞台は夢でもありましたし、目標でもありました。日本の代表として恥じないレースをしていきたい」と力強く抱負を語った。しかし、直前の国内合宿でスケート靴のブレードが壊れるアクシデントに見舞われる。オリンピックに向けたベストのブレードを失うことは、彼女にとって大きな痛手だった。「特に美馬の場合は、足の裏の神経が細かい。ブレードが合うか合わないかによって、スケーティングが変わってくるんです。合った時はものすごい力を発揮しますが、合わない時は全然ダメ」と、現在も彼女を指導する柏原幹史は語る。桜井は大きな不安を抱えたまま、決戦の地・バンクーバーに乗り込むことになった。

 競技初日、女子500メートル予選はバンクーバー北東部にあるパシフィックコロシアムで行われた。予選5組、桜井がスタートラインに立った。号砲が鳴るや否や、すぐさまもう一発が撃ち鳴らされた。桜井の隣のコースに位置したオランダ人選手のフライングだった。他の3選手は既にスタートを切っていたが、桜井だけは微動だにしなかった。すぐにフライングだと気付き、反応しなかったのだ。頭は冷静だった。しかし、やり直しのスタートの瞬間、彼女は出遅れた。わずか4周半で勝負が決まる500メートルは、スタートダッシュの重要度が高い。結局、そのまま差をつめることができず、最下位の4着でゴール。予選敗退に終わった。

 オリンピックのデビュー戦は「真っ白でした。足の感覚もフワフワしていて、宙に浮いている感じ」と、今まで滑っていた感覚とは、全く違ったという。「何が何だかわからなくて、一瞬でした」と本人が振り返るように、ほとんど何もできなかった。

 桜井は、この日にあった3000メートルリレーの予選にも第2走者として出場した。同種目では世界ランキング5位の日本は、メダルも期待されたが、結果は3位。第1走者のスタートの出遅れが響き、桜井以降の走者もその差を詰めることはできなかったのだ。上位4チームが出場するA決勝への進出はならず、5〜8位決定戦となるB決勝へとまわることとなった。4分13秒752と、日本チームとしては決して悪いタイムではなかった。だが、五輪新の4分8秒797を世界ランク1位の中国とは半周以上離され、力の差をまざまざと見せつけられた。

 その1週間後、桜井は1500メートルの予選に出場。得意種目に彼女の鼻息も荒かった。スタートから先頭を走るなど、前方につけていた。一旦、5番目に下がったものの、すぐに先頭に復帰。しかし、次第にズルズルと順位を下げていった。序盤の展開も自らレースを作っていたわけではなく、押し出されたにすぎなかったのだ。「そんなに前にいたくないのに、出てしまった。自分が引っ張りすぎてバテてしまいました」と振り返るように、ライバルたちがスパートをかける中、桜井は伸びを欠いた。結果は5着でフィニッシュと惨敗だった。

 さらに4日後の1000メートルでも予選落ち。同日に行なわれた3000メートルリレーB決勝は、4着。A決勝で韓国が失格したため、ひとつ順位は繰り上がり7位入賞となった。ショートトラック日本代表チーム唯一の入賞だったが、メダルを目指していた日本チームにとって、それは物足りない勲章だった。

 桜井が出場した個人種目は、500メートル27位、1000メートル23位、1500メートル28位と、すべて予選落ちという結果に終わった。ようやく辿り着いた憧れの舞台で、彼女は厳しい現実を突きつけられ、自信は脆くも崩れ去った。エースとして活躍が期待された桜井は、マスコミから叩かれ、彼女のブログには批判のコメントも多く寄せられた。結果がすべての勝負の世界において、“一生懸命頑張った”では敗戦の免罪符にならない。自分の弱さを思い知らされた。

 それでも桜井は、「4年後はちゃんと勝負できるように、もう一度五輪の舞台に帰ってくる」との決意を胸に雪辱を誓った。ここから彼女の真の強さを求める旅が始まったのだった。
(写真:序盤から先頭で滑れる力をつけることが課題)

 徐々に掴みつつある感覚

 失意の五輪から約8カ月後、10‐11シーズンは開幕した。桜井は10月の全日本距離別選手権で1000メートル、1500メートルで2冠を達成。国内で弾みをつけた同月のW杯第2戦カナダ・ケベック大会では、銅メダルを獲得し、国際大会で自身初の表彰台に上った。続く第3戦中国・長春大会でも3位に入り、2大会連続メダル。年が明けて3月のカザフスタンのトルマトイで行なわれたアジア競技大会でも、1500メートルで銅メダルを獲得した。

 好調の要因はどこにあったのか。オリンピックという重圧から解放された桜井は、“楽しんで滑る”というテーマでこのシーズンに臨んだ。それが好結果につながったのだ。「スケートを楽しむことによって、レース展開が見えるようになりました。それまでは“勝ちたい”という思いが強すぎで周りが見えなくなっていたんです」。この年の世界ランキングは、自己最高の15位だった。1500メートルに限れば、世界7位。彼女にとって、スケートを楽しむ、いわば原点回帰の中で、感覚を掴みかけたかに思えた。 

 しかし、 翌11−12シーズンは、全日本距離別で500メートルは13位、1000メートル、1500メートルはいずれも9位と精彩を欠き、無冠に終わった。総合上位10名までが出場できる1000メートルパシュートにも出られず、代表落ちをした。敗因は明らかだった。シーズンが始まる前に、桜井はスケート靴を替えた。それがフィットしなかった。道具への不安から、レースで迷いが生じていたのだ。「他の強い選手は多少道具が悪くても、代表落ちするまで悪くはならない」と、日本代表のコーチも務めている柏原は彼女の波の大きさを嘆く。こうして桜井はW杯シリーズの前半戦に出られなかった。

 国内開催の第3戦名古屋大会は、スタンドで観戦した。そこで桜井の目に映ったのは、日本代表選手たちの活躍、自分がメンバーにいない3000メートルリレーでは銀メダルを獲った姿だった。それでも不思議と焦りはなかった。「“今の私には、ここに居場所はないな”と素直に受け入れることができました」。もっと練習をしなければ、代表には戻れない――そう胸に刻んだのだ。そして、代表落ちしたことによって、スケートから離れて学校に行く時間も増えた。それが気分転換にもなり、桜井にとっては羽を休めるいい“休息”となったのだった。

 12月の全日本選手権では総合4位に入り、W杯の日本代表に復帰した。桜井は最終戦オランダ・ドルトレヒト大会では1500メートルでA決勝に進出するなど、シーズン終盤には復調の兆しを見せていた。

 さらに、このシーズン、日本人が初の快挙を成し遂げる。桜井の2歳上の酒井裕唯がW杯の1000メートルで総合チャンピオンに輝いたのだ。大学の先輩であり、近所に住む“お姉さん”の活躍は、「自分もこの人に勝てば、チャンスがあると思えた」と、大きなモチベーションになった。国内のライバルたちから、刺激を受けた桜井は、春から夏へと順調にトレーニングを積んだ。その成果は実を結び、迎えた12-13シーズンの全日本距離別で3年ぶりの3冠を達成した。周囲に“復活”を印象付けるには、十分だった。ただ、それが確信に変わるには、まだまだ時間が必要だった。

 自信が確信に変わるまでの過程

 W杯第2戦カナダ・モントリオール大会、1500メートルの準決勝。序盤から好位置につけていた桜井は、残り4周で仕掛ける。一時は先頭に立ち、残り2周を切ると、桜井は2番目に位置していた。後続との差も十分にあり、このまま滑り切れば、今季初のA決勝進出となるはずだった。しかし、彼女にはそう考えるだけの余裕はなかった。「“抜かれたら決勝に行けない”という焦りがありました」。気の迷いが、氷に伝わったのか、残り1周半のところで彼女はつんのめって転んだ。結局、この組最下位でB決勝にすら進むことができなかった。

 続く第3戦の名古屋大会では、桜井は1500メートルの2レースに臨んだが、どちらも準決勝敗退に終わった。予選を勝ち上がった1本目の準決勝は、残り3周のところでアウトを突こうとして、他の選手と接触し、弾き飛ばされた。自国開催枠により予選を免除されて臨んだ2本目の準決勝は、最終コーナーでアウトから捲ろうとして、前方で転んだ選手に足をすくわれた。ショートトラックにおいて、インを突くか、アウトから捲るか。この一瞬の判断が勝負のアヤとなる。名古屋での桜井の決断は裏目に出た。
(写真:「まだまだ気持ちが弱い」と苦悩する桜井)

 レース後、本人は「日本で戦う時の自信が、世界の舞台ではなくなってしまう」と胸の内を吐露し、こう続けた。「何かのきっかけで掴めればいいんですが……もう少しなんですけどね」。手応えは感じつつも、絶対的な自信には至っていない。今シーズンから日本代表監督を務める岩島直巳は、かつてISU(国際スケート連盟)の審判員を務めており、桜井の滑りも小さい頃から見ていた。その岩島の目から見ても、桜井のスケーティング技術は確かなものだった。だからこそ「自信を持てばいいのに、平常心で滑れていない」と、歯痒い思いを口にした。

 技術面は誰もが認めている。加えて柏原コーチは、レース展開の読みを「天性の勘がある」と評価する。では、それをなぜ生かせないのか。柏原は、彼女の課題をこう指摘する。「問題は体力面です。日本代表のトップ選手の中では一番劣っている。要は体力に裏付けされた自信がないんです」。桜井は調子がいい時は無心で滑れるという。こうした「何も考えないでも体が勝手に動く」という感覚に持っていくためには、日々の練習で体に叩き込むしかない。彼女はこの春、大学を卒業する。この先は、スケートに費やす時間も増えるだろう。

 さらに桜井は、コーチに任せることが多いブレードの調整を自分で覚えようとしている。バンクーバー五輪後の数年間で、ベストの数値はわかるようになった。練習メニューもレースの戦略も、昔は見様見真似で、言われたことしかできなかったのが、今では自分で考え動けるようになってきた。選手として自立しつつあるのだ。そして積み重ねていく準備が、不安をひとつひとつ消していく。そこで手に入れた真の強さは、必ず彼女の武器となるはずだ。

 リベンジの舞台、ソチへ向けて

 現在、日本のショートトラック界は、韓国と中国に水を開けられているのが実状だ。この両国は、個人戦では圧倒的な力を誇り、表彰台を独占している。ただ、日本もA決勝に進めるだけの力はつけてきており、差は縮めつつある。さらにリレー種目に関して言えば、今シーズンのW杯全4戦でメダルを獲得し、世界ランクは2位。実力的にも2強に食らいついていると言っていい。リレーは4人で戦うチーム種目、1対1で勝てない相手でも、「1+1+1+1=4」以上になる可能性を秘めている。日本には抜きんでた選手はいないが、4人のバランスがとれた穴のないチームだ。
(写真:リレーの中継は次走者を押し出して加速させる)

 なかでも桜井は一番スピードがあるため、各国のエースが揃う第2走者を任される機会が多い。3000メートルリレーは、トラック27周を4人で中継して滑る。走者の中継のタイミングは自由で、アンカーのみが2周を滑走する。一般的には1人あたり1周から1周半滑るため、2走がアンカーを務めることが多い。最終走者の重みについて桜井は「みんなが繋いできたバトンなので、それを最後までゴールに繋げる」という責任感で滑ると言う。

 ソチ五輪までは、あと残り約1年。「リレーでは絶対にメダルを獲る」というチームの思いがある。2月にはW杯第5戦ソチ大会が開催される。オリンピックに向けて、会場の氷の感触を知る絶好の機会だ。さらにはW杯最終戦をはさみ、3月にハンガリー・デブレツェンで行なわれる世界選手権と続く。そして翌13-14シーズンからオリンピックシーズンを迎える。ソチの足音は確実に近付いてきている。

 桜井にオリンピックへの思いを訊ねると、「目標をちょっとずつクリアしていくことで明確に見えてくると思います。一歩一歩、今は大事にやっています」と答えた。彼女が歩んでいく道に、栄光が待っているとは限らない。それでも桜井への期待は高まる。これまで壁にぶち当たりながらも、ひとつずつ、それを乗り越えてきた。神野由佳に憧れた桜井だが、真の強さを手にして、今度は彼女が背中を追いかけられる番だ。それがトップスケーターの宿命なのである。

(おわり)
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桜井美馬(さくらい・びば)プロフィール
1989年6月8日、大阪府生まれ。6歳でショートトラックを始め、数々の大会で優勝。中学卒業後、親元を離れ東京へ。武蔵野高3年時に全日本選手権で初の総合優勝を達成する。早稲田大学に進学後、2009年に全日本距離別選手権で3冠を達成、全日本選手権でも総合優勝を果たし、翌年のバンクーバー五輪に全4種目に出場。3000メートルリレーでは7位入賞を果たす。10-11シーズン、W杯では1500メートルで2個の銅メダルを獲得、11年のアジア冬季競技大会でも同種目で3位に入った。今シーズンは距離別選手権で3年ぶりの3冠を果たした。W杯では3000メートルリレーのメンバーとして、4戦連続メダル獲得に貢献した。ソチ五輪で日本女子初のメダルが期待されている。身長152センチ。

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(杉浦泰介)
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