管理栄養士・花谷遊雲子にとって、忘れられない“勝負”がある。
「花谷さん、相談があるんです。今の私のダイエット方法では、続かないと思うんです」
 2004年、4年後の北京五輪の代表候補選手を決める選考会を2週間後に控えていた頃のことだ。あるシンクロナイズドスイミングの代表候補選手が、減量に苦しんでいた。それまでは自らアドバイスを求めに来るような選手ではなかったという。その彼女が、初めて花谷に悩みを打ち明けたのだ。それだけ北京五輪にかける思いは強かった。
 彼女は、それまでも強化指定選手に選ばれていたが、五輪代表選手につながるAチームではなく、いつもBチームに甘んじていた。当時大学1年生だった彼女にとって、北京五輪は最後のチャンスだと考えられていた。シンクロナイズドスイミングは1日8時間の練習が課せられる。その練習に耐え抜くには、一般女性の食事よりも量もカロリーも多く摂取する必要がある。だが、10代後半から20代前半にかけて女性ホルモンの分泌が活発になることで女性は太りやすい体質になる。その選手も19歳と、まさに年齢的な発育による体質が大きくかかわっていた。

 どの競技においても、身体の変化がパフォーマンスに大きく影響を与えるため、体重の変動が大きくなりやすい10代と20代との境目の時期に悩む女性アスリートは少なくない。特に、シンクロやフィギュアスケートのような審美系の競技は、見た目にも気を配らなければならない。そのため、その選手はほとんど絶食状態での過酷なダイエットを行なっていた。だが、それが長く続くはずはなかった。結局は、過食に走り、絶食と過食が繰り返されるという辛い悪循環に陥っていたのだ。

 “食べる”減量法での挑戦
 

 そこで、花谷が提案したのは「食べるダイエット」。1日の摂取カロリーを8時間の猛練習に耐え得るであろうギリギリの1600キロカロリーにすることだった。これは1日3500キロカロリー前後の食事を摂る他の選手の約半分である。それでも、選手は「太ってしまう……」と食べることを怖がった。
「1日の体重変動は、水分などによって左右されるもの。あなたにとって重要なのは、トータル的に見た体脂肪率を減らすことだよ。それは長いスパンで見ていかなければならない。食事の量とあわせてバランスとタイミングを整えれば、必ず身体は変わる。とにかく、まずは選考会までの2週間、やってみようよ」
 この花谷の言葉に、選手は少し迷いながらも首を縦に振った。

 その日から2人の挑戦がスタートした。その時期は、自宅に帰っての調整で、自己をコントロールすることは非常に難しかった。合宿や遠征時のような周囲からの強制力がないため、ついつい甘さが出てしまうのだ。ところが、彼女は花谷のアドバイス通りのメニューを作り、1日1600キロカロリーを守り抜いた。
「私が『どう? 辛くない?』と聞くと『辛くありません。だって、最後のチャンスですから』と言うんです。うわぁ、この子、本気の本気だなと思いましたよ」

(写真:「1回1回が勝負」と語る花谷。練習の様子を見ながら各選手にあった調整法を模索する)
 2週間後、選考会を終えた彼女は、何とかAチームのメンバーに選出された。しかし、ダイエット自体はまだ効果をあらわしてはいなかった。そこで、2人は1600キロカロリーの摂取量を継続することにした。だが、前例のない減量方法に、コーチは不安を隠さなかった。
「本当に大丈夫? 間に合うの?」
 それはコーチがその選手を戦力として見ていた故の言葉だったのだろう。「間に合わせてもらわなくては困る」と言いたかったのではないか。

 しかし、そんなコーチの言葉にも、花谷の考えが揺らぐことはなかった。
「食べずにダイエットをしても、それは一時的なものに過ぎません。逆に、筋量や集中力低下で練習の質を落としてしまい、他の選手にも影響を及ぼしかねません。彼女を北京に向けて強化していくのであれば、食事を摂りながらの長いスパンで身体を変えていくことが必要だと思います」
 花谷と選手の覚悟が伝わったのだろう。コーチの承諾を得て、再び2人の挑戦が始まった。

 本気が生み出す自己管理能力

 ところが、はじめのうちはなかなか思うように体重や体脂肪率は減らなかった。練習は他の選手と同じようにしっかりとこなしていた。相当な量のカロリーを消費しているはずだというのに、数字にはあらわれない。
「なぜ、減らないのだろう……どうしたらいいのだろう」
 そう思いながら、花谷は選手と自身の出した決断を信じ、辛抱強く続けた。それは選手の本気に支えられていた。

「正直、私の中でも『どうやって減らしたらいいんだろう』と悩んだこともありました。でも、選手が『私、このまま続けてみようと思います。体重はあまり変わらないけど、ずっと悩んでいた便秘がよくなってる! 身体が変わってきている証拠だと思うから、もう少しやってみます』と言ってくれたんです。私も『よし、わかった。もし、一時的に体重が増えたとしても、コーチには私からちゃんと説明しておくから。徹底的にやってみよう』と言いました」

 成果があらわれ始めたのは、約1カ月後のことだった。体脂肪率が減り始めたのだ。数字以上に見た目がシャープとなった彼女のパフォーマンスは確実に上がった。その後、彼女の体質はきちんと食べなければ体重が減ってしまうようになったという。努力の末に体質改善に成功し、最後のチャンスを掴み取ったのだ。4年後、北京の地でその選手が華麗に泳ぐ姿を、花谷はまぶしく感じたに違いない。

「管理栄養士の仕事は、1人1人との身体と向き合う責任……真剣勝負なんです。お互いに本気で向き合ってこそ、成果が出る。だからこそ、覚悟がいる仕事です。大事なのは先入観や固定観念を抜きにして、その選手を見ること。体質や体調はもちろん、性格や考え方を把握することも重要です。知識だけでなく、経験で磨かれていく感性も必要だと思っています」

 昨夏、ロンドン五輪を経験し、チームに残留したメンバーたちにも、“本気”が見え始めているという。既に2016年リオデジャネイロ五輪に向けてスタートした中、数人の選手から「食事について、まだ隙があったので、これからは真剣に向き合って、しっかりと取り組んでいきたい」という声があがっているのだ。
(写真:ロンドン五輪の選手村での、ある選手の食事。体調の様子とともにメールで届き、アドバイスする)

 花谷は、世界最高峰の舞台を踏んだ経験値がいかに選手を成長させるかを今、痛感している。
「ロンドンで世界を目の当たりにしたことで、本気で次のリオでのメダルを狙っている。だからこそ食事に対しても、より深く考え始めたのだと思います」
 花谷が最終目標とする「自己管理のできる選手の育成」は、確実に芽吹き始めている。

(おわり)

花谷遊雲子(はなたに・ゆうこ)
茨城県出身。管理栄養士。京都府立大学大学院食生活科学専攻課程修了。4年間の茨城県保健所勤務を経て、2000年にフリーに転身し、アスリートのサポートに携わる。01年より国立スポーツ科学センタースポーツ医学研究部栄養指導室に勤め、五輪を目指すアスリートたちの栄養管理を手掛ける。05年よりシンクロナイズドスイミング日本代表管理栄養士となり、現在に至る。10年よりパーソナルトレーニングジムBODY TIPS(渋谷区)で一般向けのカウンセリングも行なっている。

(文/斎藤寿子)
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