ロンドン五輪が始まる前、日本オリンピック委員会(JOC)は「金メダル数で世界5位以内」との目標を立てた。「そのためには15から18個の金メダルが必要」(JOC上村春樹常務理事)との認識を示した。
 結果的に日本は史上最多の38個のメダルを獲得したにもかかわらず金メダル7個に終わり、世界10位タイだった。全日本柔道連盟の会長でもある上村氏は「苦戦の要因は柔道」と声を落とした。とりわけ五輪史上初の金メダルゼロに終わった男子には批判が集中した。監督の篠原信一は「これは私の責任。特に選手に対して最も申し訳なく思う」と言って唇を噛んだ。

 考えてみれば、銀メダルでも「負けた」と言われる五輪競技は、この国では柔道だけである。「2位じゃダメ」なのだ。しかし現状は厳しい。1964年の東京五輪でメダルを獲得したのは9カ国だったが、前回の北京五輪では19カ国(男子のみ)にまで広がった。そんな中でも7階級で4つのメダルを獲ったのだから、まだまだ男子柔道も捨てたものではないとの逆説も成り立つ。

 いずれにしても柔道がワールドワイドな発展を遂げるなか、日本がその頂点に君臨し続けるのは容易なことではない。というより、そもそも国際大会に勝利することのみが柔道の目的なのか……。

<競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。言わば競技運動は柔道の目的とする処の一部を遂行せんとするに過ぎぬのである>
 本書(日本武道館発行)に示された文献で、こう述べているのは講道館柔道の創始者である嘉納治五郎である。オリンピックと言えども「目的とする処の一部」と解釈していいのだろう。現在の競技至上主義、勝利至上主義の弊害を80年以上前に早くも見越し、警鐘を鳴らしているのである。その先見の明には、ただただ驚かされる。

 嘉納治五郎なくして柔道はなく、その発展も伸長もなく、当然のことながら国際化もなかった。現在、国際柔道連盟は200の国と地域を傘下に置く強大な組織である。創始者である嘉納は、なにゆえに柔道の国際化にこだわり、「複雑で広い」目的を達成するために命を賭けたのか。「精力善用」「自他共栄」とは彼の造語だが、その真に意味するものとは何か。膨大な資料を渉猟し、丁寧に解説を加える著者の地道な作業を通して、私たちは嘉納の斬新にして崇高なミッションの断片に触れることができる。

 比類なき国粋主義者にして博愛の精神に満ちた国際主義者。“柔道の父”の実相も「複雑で広い」。今の世に、そして、この国に嘉納治五郎ありせば、と思わざるを得ない。本書は単に柔道関連の書ではない。夕日の中で茫然と立ち尽くす日本人への指南の書である。 「柔道の国際化」 (村田直樹著・日本武道館)

<上記は2012年9月26日付『日本経済新聞』夕刊に掲載されたものです>
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