さる15日、東京・池上本門寺で力道山の五十回忌法要がしめやかに営まれた。没後50年となる来年には力道山の孫がプロレスデビューを果たす予定だ。
 戦後最大のヒーロー力道山。街頭テレビ前の黒山の人だかりを撮った写真が本書(飛鳥新社)の表紙を飾っている。無数の瞳が力道山を見つめ、どの顔にも精気がみなぎっている。敗戦後の日本人に、どれだけの希望と勇気を与えたか。表紙の写真が全てを物語っている。

 力道山に関する著作は山のようにあるが、英雄の実像を知る上で本書以上に参考になったものはない。それは著者が最も身近にいた人物だからに他ならない。そう、著者は力道山とは力士時代から親交があり、プロレスラーとなってからは個人秘書や事業会社の役員として、プロレスを始めとするビジネスを支えた。ありていに言えば力道山の裏も表も知る男である。

 力道山が東京・赤坂のナイトクラブで暴力団員に腹部を刺されたのは49年前の12月8日である。1週間後の15日、その傷が原因で絶命した。享年39だった。
<この十二月八日という日は、もともと力道山は東京にいて酒を飲んだりしているはずではなかったんです>

 これはいったい、どういうことなのか。著者によれば、その日は箱根でゴルフをし、夜9時からはTBSのラジオ番組に出演する予定になっていた。だが、大相撲の高砂親方(元横綱・前田山)からロサンゼルス興行について、相談したいとの連絡を受け、急遽、遠征先の浜松から帰京したのだという。

 話し合いが終わってから2人は赤坂の料亭に繰り出した。著者は二2次会用のナイトクラブとして、同じ赤坂の「コパ・カバーナ」を予約していた。ところが、なぜか力道山はヘソを曲げ、行き先を突如として「ニュー・ラテンクォーター」に変更する。これが力道山にとっては運の尽きだった。

 なぜ刺されたのかは未だにはっきりしない。トイレで暴力団員と口論になり、酔った力道山が手を出した。その仕返しで刺されたという説が有力だが、現場を知る者は当事者以外にいない。

 著者は力道山の臨終にも立ち会っている。息を引き取る間際、力道山は指を三本差し出した。これについては「3人の子供たちを頼む」と無意識に伝えたとか、「祖国の北朝鮮と韓国、そしてプロレスラー力道山として活躍した日本。この3国の友好を願った」とか言われているが、著者は<いろいろ憶測してみる人もいましたが、憶測は憶測でしかない>と喝破している。

 このように英雄の最も近くにいた人物でありながら、私情を極力、排除した書きぶりが本書の信憑性を担保している。なお、著者は昨年5月に世を去っている。
「君は力道山を見たか」(吉村義雄著・飛鳥新社)

<上記は2012年12月26日付『日本経済新聞』夕刊に掲載されたものです>
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