17年間、“ミスター”こと長嶋茂雄の専属広報を務めた小俣進。彼がプロ野球の世界に足を踏み入れたのは1973年のことだ。左投手として藤沢商業高(神奈川)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て、小俣はドラフト5位で広島に入団した。3年後の76年、交換トレードで巨人に移籍する。前年、巨人はV9時代を築き上げた川上哲治の後を継いで、長嶋が巨人軍の監督に就任していた。だが、1年目は球団史上初の最下位に転落。長嶋が血眼になって常勝軍団復活への道を模索していたことは想像に難くない。小俣はそのピースのひとつとして呼ばれたのだ。実際、貴重な左の中継ぎとしてチームを支え、3年ぶりの優勝に貢献した。これが、巨人、そして長嶋との深い縁の始まりだった。
 小俣はその後、ロッテ、日本ハムへと移籍し、85年オフに現役を引退した。1年間の休養を挟んで、87年には巨人のバッティングピッチャーとなった。当時、監督だったのが就任4年目を迎えた王貞治だった。就任以来、3位、3位、2位と、あと一歩のところで優勝を逃していた王にとって、勝負の4年目だったに違いない。その頃の巨人打線は左投手に苦戦していた。そこで小俣に白羽の矢が立ったのだ。
「小俣、左投手に苦しんでるんだよ。オマエ、ちょっと手伝いに来てくれないか」
 小俣に断る理由はなかった。
「はい、わかりました。僕でよければ、喜んでやらせてもらいます」

 とはいえ、実際やってみると、現役時代とはまったく異なる難しさがあった。バッティングピッチャーは、各バッターの要求通りの球種、コースのボールを投げ分けなければならない。だが、それ以上に難しかったのが“打ちやすいボール”を投げることだった。
「やることが、現役の時とまるで逆なんですよ。普通、ピッチャーはバッターに対して打たれないようにするわけでしょう。ところが、バッティングピッチャーはバッターに気持ちよく打たせてなんぼの仕事。でも、これがなかなか……。現役時代は抑えようとして打たれていたのに(笑)、いざ打ってもらおうと思って投げると、意識しすぎるあまり、逆にシュート回転した打ちにくいボールがいったり……1年目のキャンプは本当に苦労しましたね」

 バッティングピッチャーは、ほぼ毎日投げなければならない。しかも、30分以上も投げ続けなければならないのだ。そのためのスタミナは必須だった。
「毎日、肩をつくるための遠投や、足腰を鍛えるためのランニングは欠かせませんでしたね。たいしたことではないけれど、現役の時は、バッティングピッチャーがこんなふうにトレーニングしているなんて、まったく知りませんでしたよ」

 忘れられない吉村のバッティング

 駒田徳広、吉村禎章、ウォーレン・クロマティ、原辰徳、元木大介、……80、90年代の巨人を代表する戦士たちを、小俣は陰で支え続けた。なかでも、小俣が最も印象に残っているバッターが、吉村だという。当時の吉村について、小俣はこう語る。

「ケガをする前の吉村は、特によく覚えていますね。彼のストライクゾーンはすごく広いんです。高め、低め、内外と、どこにどんな球を投げても、体勢を崩さずに、芯でとらえる。僕とは左対左だから、普通は打ちづらいはずなんだけど、そりゃもう、気持ちのいい打球をカーン、カーンと打ってくれましたね。コントロールのいい、優秀なバッティングピッチャーだと、逆に感じさせてくれるほどでしたよ。バッティングピッチャーは気持ちよく打たせるのが仕事なのに、吉村には気持ちよく投げさせてもらったという感じでしたね」

 小俣は巨人とは相性が抜群だ。広島から巨人に移籍した74年には、長嶋率いる巨人が3年ぶりに日本一の座を奪還。さらにバッティングピッチャー1年目の87年には、王率いる巨人が4年ぶりにリーグ優勝を果たした。しかも長嶋、王にとっては、それぞれ監督として初優勝でもあった。
「現役時代の優勝も嬉しかったけど、バッティングピッチャー1年目での優勝も嬉しかったですね。前年、苦戦していた左ピッチャー対策として呼ばれたわけですからね。少しは王さんの役にたてたかなと」

 地方遠征に帯同すると、小俣は選手たちからよく食事の誘いを受けたという。
「選手たちは僕らスタッフにもよく気を遣ってくれましたよ。遠征に行くと、選手の方から『小俣さん、一緒にご飯に行きましょう』と誘ってくれるんです。もちろん、選手のおごりですよ。年齢は若くても、収入はケタ違いですから(笑)。スタッフを大事にしてくれるのが巨人の伝統でもあるんです」
 バッティングピッチャーとしての小俣への信頼の厚さもまた、そうした選手の言動に表れていたに違いない。

 発掘第1号は“山口2世”

 6年間のバッティングピッチャーを経て、長嶋が監督復帰した93年から17年間、広報を務めた。そして、2009年8月からは球団スカウトとして独立リーグのベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)を担当した。その年、小俣が発掘したのが後に“山口(鉄也)2世”と呼ばれた星野真澄だった。初めてBCリーグの試合を視察に訪れた日、小俣の目に留まったのが、当時信濃グランセローズに所属していた星野だった。リリーバーとして短いイニングではあったものの、星野のピッチングには魅かれるものがあった。
「へぇ、こんなところに、こんなにいいピッチャーがいるんだ、と驚きましたよ。どこに目が引かれたかって、とにかく投げっぷりが良かったんです。球速自体はそれほど速いとは思わなかったけど、パーンと思い切りよく腕が振れていて、いいなと思いました」

 再び小俣が訪れた試合で、星野は先発し、2ケタ奪三振をマークした。
「もちろん、NPBと比べれば、リーグのレベルは低いけれど、それでも2ケタも三振が取れているんだから、ひょっとしたら面白い存在になるんじゃないかと思ったんです」
 とはいえ、小俣はスカウトとしては新人同様だった。しかも星野のピッチングを以前から見続けてきたわけでもなかった。そのため、自分の目に狂いがないかどうか、多少の不安はないわけではなかった。

 そこで、小俣はスカウト部長にも星野のピッチングを見てもらった。偶然にも、部長は大学時代の星野を見ていた。
「星野は、大学時代は今よりも上から投げていたんです。当時から少し名前が挙がっていたようですが、並みのピッチャーという見方だったようです。でも、信濃時代には腕を少し下げて投げていて、それが星野にははまっていた。部長も『へぇ、こんなに変わったのか』と評価をしてくれました」

 その年のドラフト会議で、星野は育成1位で巨人に指名された。実は星野の「真澄」という名前は、栄えある巨人の背番号18を背負い、エースとして何度も優勝に導いた桑田真澄のファンだった星野の父親が息子につけた名だった。そんな星野に、巨人との縁を結んだのが小俣だったのである。

 小俣としては、育成ではなく、本指名でもいいくらいの選手だと感じていたという。その見立ては間違ってはいなかった。翌年の春季キャンプで星野は途中から一軍に合流し、開幕前の3月には早くも背番号は育成を表わす3ケタの「100」から、支配下登録されたことを証明する2ケタの「95」へと変更された。4月には一軍デビューを果たし、1年目から34試合に登板した。

 しかし、星野は翌年から導入された統一球に苦戦し、2年目は不振に陥った。それでも、シーズン終了後には背番号は「60」へ変更された。そこには球団からの期待の大きさがうかがえる。その期待に応え、統一球を克服した星野は昨年5月27日、北海道日本ハム戦で2番手として3イニングを投げ、3年目にしてようやくプロ初白星。BCリーグ出身投手としては初の快挙だった。

 セガサミー浦野への期待

 11年、還暦を迎えた小俣は、その年限りで退団。昨年からは社会人野球の強豪、セガサミーのアドバイザーに就任し、現在はピッチャーへの指導、スカウト活動を主に行っている。小俣とともに昨年、セガサミーの一員となり、今やチームのエースへと成長したのが浦野博司だ。その浦野について、小俣はこう語る。
「大学時代から浦野を見てきたスカウト仲間に訊くと、みんな口をそろえて『大学の時とは変わった』って言うんです。ボールというよりも、スタミナの面での違いを言いますね。セガサミーに入ってから肩のスタミナがついたと」

 それを象徴するような試合がある。今年3月28日の東京都企業春季大会準決勝、JR東日本戦だ。この試合、延長12回までもつれこみ、セガサミーはサヨナラ勝ちを収めた。先発した浦野は最後まで一人で投げ切り、1失点完投。166球の熱投だった。
「延長に入ってからも、150キロを出したりして、球威がまったく衰えなかった。それだけ肩のスタミナがあるということです。さらに、1年目と比べても気持ちの面での成長がうかがえた試合でした」

 その浦野は、24日のドラフト会議で、北海道日本ハムから2位で指名された。もちろん、日本ハムは彼を即戦力として見ているはずだ。果たして浦野はNPBでは通用するのか。小俣はこう答えた。
「先発投手はマウンド上でずっと気持ちを張りつめているわけにはいかないんです。ところが、昨年の浦野はいつもめいっぱい投げている感じだった。抜くところは抜かないとダメ。でも、今年の浦野にはそれができるようになったことが大きいですね。彼はコントロールもいいし、牽制など細かい技術も持っている。先発だけでなく、リリーフもできるタイプです。イメージ的には全盛期の西口文也(埼玉西武)かな。体は細いし、特にパワーがあるわけではないんだけど、ボールのキレは目を見張るものがある。変化球もいいですしね。それに、とにかく気持ちが強いピッチャーなんです。スカウトの目から見て、NPBに行っても、十分に通用するピッチャーだと思いますよ」

 野球一筋の人生を歩んできた小俣。選手、バッティングピッチャー、広報、スカウト、アドバイザー……。プロ、アマの両面でこれだけ多方面から野球と携わってきた者はそう多くはいないだろう。そんな小俣だからこそ、思うことがある。
「高校野球やNPBだけでなく、社会人野球にも独立リーグにも、いい選手はたくさんいるし、試合も見応えがある。それに、技術がどんどん上がってきている。だから、もっと球場に足を運んで観に来てもらいたいですね。そうすれば、日本の野球界全体がさらに盛り上がるはずです」
 日本球界最高峰の舞台に身を置いた小俣にも、その一翼を担うことが期待される。

(おわり)

小俣進(おまた・すすむ)
1951年8月18日、神奈川県生まれ。藤沢商業高卒業後、日本コロムビア・大昭和製紙富士を経て、73年にドラフト5位で広島に入団。75年オフには交換トレードで巨人に移籍後、左の中継ぎとして1軍に定着する。80年オフ、ロッテ移籍後は先発として起用され、同年プロ初完投・初完封を達成した。84年オフに日本ハムに移籍するも、1軍で登板することなく85年限りで現役を引退。その後、巨人の打撃投手、広報、スカウトとして歴任。2012年からはセガサミー野球部のアドバイザーに就任した。

(文・写真/斎藤寿子)
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