Jリーグがスタートして20年目の昨季、J1で初の日本人元Jリーガー優勝監督が誕生した。サンフレッチェ広島の森保一である。これを受け、Jリーグの生みの親である川淵三郎(日本サッカー協会最高顧問)は「それが地道な努力を重ねてきた森保だったことに価値がある」と喜んだ。
 広島の前身マツダでプレーしていた森保を初めて代表に呼んだのが、外国人で初の日本代表監督となったハンス・オフトだ。これにはオフトを代表監督に起用した川淵も「こんな選手がいるなんて知らなかった」と驚いたほどである。森保はそれくらい地味で目立たない選手だったのだ。

 俗に言う“ドーハの悲劇”により、1994年米国W杯出場はならなかったものの、森保は川淵をして「オフトジャパンは彼なしには存在しなかった」と言わしめるほどの活躍を見せた。中盤の底で冷静に試合をコントロールした。聡明でタスク(役割)に忠実なプレーは、まさに“オフト好み”だった。

 オフトが代表監督に就任したのは92年4月、つまりJリーグがスタートする13カ月前だ。日本サッカーがW杯出場に本腰を入れ始めた時期と重なる。
 川淵は早くからオフトの手腕に目をつけていた。「82年の天皇杯でヤマハを優勝させたのがオフトだという印象が強かった」。就任要請にあたってはピッチの全権をオフトに与えることを約束した。

 ラモス瑠偉やカズ(三浦知良)など有能で個性的な選手はいたものの、まだW杯未出場の代表チームを、オフトはどのような手法で強化したのか。自らの哲学や戦術を浸透させるために用いたのが数々のキーワードだ。アイコンタクト、トライアングル、スモール・フィールド……。オフトはキーワードを多用することで、自らが志向するサッカーのコンセプトを選手に明確に伝えた。

 たとえばトライアングルとは、常に3人が三角形を保ったポジショニングをとるように動くことを指す。スモール・フィールドとはFWと最終ラインの距離を常に35メートル以内におさめることを意味する。近代サッカーにおいて選手の連動は不可欠であり、それはコンパクトな陣形を保つことで初めて容易になる。オフトはこうした約束事の重要性を選手に丁寧に説き、効率的な練習を通して実践した。

 短期間で日本代表の強化に成功した手腕を評価して「オフト・マジック」なる言葉が当時のメディアには溢れた。マジックの正体を自ら解説したのが本書(徳増浩司訳、講談社)である。改めて読み返しても、彼の強化法や指導法は理に適っている。マジックならぬロジックである。

 もし、この時代にオフトなかりせば、日本サッカーの夜明けは、あと4年、いや8年は遅れていただろう。
「日本サッカーの挑戦」 (ハンス・オフト著・講談社)

<上記は2013年2月27日付『日本経済新聞』夕刊に掲載されたものです>
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