日本ラグビー界の宝と言われる選手がいる。24歳の立川理道だ。ポジションは司令塔・スタンドオフ(SO)およびセンター(CTB)。長短のパスで攻撃をかたちづくり、時には力強いランで自ら突破口をつくる。トップリーグのクボタスピアーズに所属し、今では日本代表にも定着した。昨年6月に歴史的初勝利を挙げたウェールズ戦に先発で出場し、15年のイングランドW杯で主力としての活躍が望まれている。
 これまで代表のSOにはフィジカル能力に長けた外国人選手が配置されることが多かった。しかし、“日本人らしい”ラグビーを志向するエディー・ジョーンズ日本代表ヘッドコーチ(HC)が求めたのは、強い日本人SOだった。
「ボールを持った時の強さ、ボールでラインを引っ張る強さは今後、テストマッチレベルで通用する」
 2012年3月に立川を初招集した際、指揮官はこう期待を寄せており、現在は20キャップと代表で経験を積んでいる。

 立川がジャパン入りできた大きな要因にはパス技術の高さもある。
「パスやキャッチングの部分は、世界のうまいと言われている選手と比べても劣っていないという自信を持っています。それらはエディーさんからも褒められたことでもありますし、自信を持てる部分はしっかり持って世界と戦っていきたいですね」
 立川は11月のオールブラックス(ニュージーランド代表)戦で肩を負傷し、残念ながら欧州遠征の代表からは離脱。ただ現在は順調に回復しており、クボタで牙を研ぎながら再び世界と戦う機会をうかがっている。

 4人兄弟全員がラガーマン

 立川は4人兄弟の末っ子として奈良県天理市で生まれ育った。天理市には複数のラグビースクールがあり、ラグビーが盛んな土地だ。兄たちは全員、地元の「やまのべラグビー教室」に入っていた。立川本人も、1つ年上の兄・直道(現クボタ)についていき、同教室で楕円形のボールを追い始める。まだ4歳の時だった。

「僕が“やりたい”と言った記憶はなくて、兄がやっていたから、という理由で自然に入団したのを覚えています」
 この「やまのべラグビー教室」で立川はラグビーの楽しさに触れた。
「ポジションも固定されることなく、ただボールを持って前に走ってトライする。それが単純に楽しかったですね。ラグビーの楽しさをイチから教えてもらったと思っています」

 小学4年の冬には、すっかりラグビーの虜になった立川を、さらに競技へ熱中させる出来事があった。長兄・教道が天理高校の一員として全国高校ラグビー選手権(花園)に出場したのだ。もちろん、立川は現地まで応援に行った。そして、試合で味方のパントキックから兄がトライするシーンを目撃した時、立川の中に、ある思いが芽生える。

「ラグビーって面白いな」
 小学3年までは、ひとりでただ相手を抜いてトライすることを楽しんでいた。それが、天理高校の試合を見てからは、仲間と一緒にトライをとることに魅力を感じた。立川が本当のラグビーの面白さに気付いた瞬間だった。そして、兄と同じように「僕も天理高校の選手として花園に出たい」という夢も抱いた。

 中学は天理中へ進学した。天理中にはラグビー部があり、同じ地域でスクールに入っていた選手に、中学校から競技を始める選手が加わった。小学校時代のスクールは週1回の練習だったのに対し、中学の部活動ではほぼ毎日、練習がある。その内容は立川曰く「3年間、基礎練習ばかり」だった。
「特にパスの練習が多かったですね。そういった基礎練習を繰り返しました。中学時代に培った基礎が、今につながっていると思います」

 中学時代はCTBで鳴らし、中学3年時には奈良県選抜に選ばれた。そんな立川の実力に目をつけた人物がいる。天理高校ラグビー部監督の武田裕之(現創志学園監督)だ。

 目指すは花園優勝

「突破していく強さ、自信に溢れ、ディフェンスでは、本当に相手をしつこく追いかけていました。泥だらけになりながら頑張る選手でしたね」
 武田は、立川を指導し始めた頃の印象をこう振り返る。武田は立川にフィジカル面やキック力といった個人的な能力を向上させることに注力させた。「ハル(立川)に限らず、高校で終わらせないよう、上につながるように」との思いがあったからだ。厳しいメニューもあったが、立川は嫌な顔ひとつせず、練習に取り組んだ。

 ひとつの転機が訪れたのは、高校1年時のある練習試合だ。上級生のSOが負傷していため、立川はCTBではなく、SOとしてBチームの試合に出場した。「複数のポジションを経験することで、その位置の選手の気持ちを理解させたい」との武田の意図もあった。初めてのポジションで立川は司令塔のおもしろさに目覚めた。
「ゲームを動かしているという感覚を得られました。自分のプレーひとつが得点につながったり、逆にミスが一気に失点につながる重要なポジション。ラグビーの難しさと面白さを感じられて楽しいと感じましたね」

 これを機に、立川はSOとしてもメキメキと頭角を現していく。1年生ながらレギュラーを獲得し、花園出場に貢献。初戦である成蹊(東京)との試合ではトライを奪う活躍を見せた。ただ、当の本人は緊張で当時のプレーをほとんど覚えていないという。
「高校1年の時に出た花園は、ほぼ頭が真っ白でしたね(笑)。とにかく時間が早く過ぎていきました。自分が何をやったかを覚えていないまま試合が終わったような感じです。特に1戦目なんかはいいプレーをしたのか、悪いプレーをしたのかさえわかりませんでした」

 結局、最初の花園は2回戦で敗れた。全国の壁は分厚いと感じたものの、立川にとって花園はもう夢の舞台ではなくなっていた。
「夢ではなく、もっと身近な存在になりましたね。次に抱いた夢は花園に出て優勝する、当時で言えば高校日本代表になる、ということでした。花園は夢への通過点。しっかり出て結果を残すことを目標に掲げるようになりました」
 立川は高校2年時もSOとしてプレーし、天理高を花園出場に導いた。

 夢実現を阻んだアクシデント

 だが、2回目の花園も3回戦で敗退。新チーム発足にあたり、立川は指揮官からキャプテンに指名される。なぜ、彼はキャプテンに指名されたのか。武田は理由を次のように語る。
「ハルは決して自分勝手に走らず、チームプレーに徹する選手でした。そんな彼には、チームメイトも絶大な信頼を寄せていたように映ります。ですから、これだけ信頼があれば、立場が人を育てるじゃないですが、さらに大きな選手になっていくと考えたんです」

 名実ともにチームの支柱となった立川は、3年では再びCTBでプレーする機会が増えた。彼がケガで試合に出られない時期に、代役を務めたSOがいいプレーを見せた。その選手の出現が「CTBに強い選手を置きたい」と考えていた武田の思惑に合致したのだ。

 このポジションチェンジの効果は抜群だった。天理高はバックスがフラットに攻め上がり、スペースに人が走り込んで抜いていくラグビーを志向していた。その中で、新SOのパスとCTB立川の強さが融合し、攻撃のバリエーションが増したのだ。立川自身も「ここまで簡単に抜けるのか」と驚くほどの手応えを得た。高校最後の花園出場をかけた奈良県予選では、決勝で御所実業を19対8で破り、3年連続で出場権を手にした。

 本大会はシード校として迎えた。初戦の2回戦は札幌山の手高(南北海道)に56対0で圧勝。続く3回戦・国学院久我山高(東京)にも25対0で勝利し、勢いに乗って勝ち進むかと思われた。だが、この3回戦で立川はアクシデントに見舞われる。相手から激しいマークに遭う中で胸を強打。武田によれば「翌日はパスするのも辛そうだった」という。

 それでも、指揮官にはチームの支柱であるキャプテンを先発から外す選択肢はなかった。
「ハルをベースにしたチームづくりを進めてきました。過去、彼が出られなかった試合がありましたが、他の選手が不安を抱きながらプレーしているように感じましたから」
 だが、強行出場は実らなかった。天理高は長崎北陽台高に10対14で敗れ、ベスト8で姿を消した。「花園で優勝する」という夢は達成できなかった。もうひとつの夢だった高校日本代表入りも、候補に選ばれたものの落選。悔しさの残る中で高校ラグビーを終えた。

 しかし、立川が立ち止まることはなかった。彼には次なる夢が生まれたからだ。
「トップリーグのチームでプレーしたい」
 それを叶えるには大学で、関東の強豪大学や関西の古豪に進むのが近道だ。だが、立川が選択したネクストステージは当時・関西大学Aリーグ6位の天理大学だった。

(後編に続く)

<立川理道(たてかわ・はるみち)>
1989年12月2日、奈良県生まれ。やまのべラグビー教室―天理中―天理高―天理大―クボタ。4歳の時にラグビーを始める。天理中時代には奈良県選抜に選出。天理高では3年連続で花園に出場した。天理大では3年時から関西大学ラグビーリーグを連覇。4年じには主将として大学選手権で準優勝を経験した。12年、クボタスピアーズに入団。日本代表には12年に初選出され、現在、20キャップを記録している。ポジションはSOおよびCTB。パス技術の高さ、外国人相手にも当たり負けしない強さが武器。身長180センチ、95キロ。
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