「一番驚いたのは、パスセンスの高さですね」
 天理大の小松節夫監督は立川理道に初めて会った時の衝撃をこう振り返る。立川のパスを小松は「球持ちがいい」と評する。相手のプレッシャーをギリギリまで引きつけ、よりベストな選択のパスを通す、という意味だ。
「パスを放る瞬間までボールが手に張り付いている。単純にパスの精度が高く、遠くに放れる選手はいますが、立川のように球持ちのいい選手はそうはいません。これは教えてもなかなか身につかないものですからね」
 高校日本代表候補の立川には、複数の強豪大学からスカウトがきていた。しかし、彼が選択したのは、兄・直道が進学していた天理大。「地元から離れるというイメージがまったく浮かばなかった」ことに加え、大学と高校の合同練習で、天理大・小松監督の指導法に魅力を感じていたからだ。 

 同年代に感じたレベルの違い

 パスセンスを小松に買われた立川は1年からSOのレギュラーに抜擢される。そして、2年時の09年6月、日本開催の「ジュニアワールドチャンピオンシップ」に出場するU−20代表に選出された。しかし、ここで立川は世界の高い壁を実感する。
 立川は全5試合に出場したものの、決定的な仕事をこなせなかった。日本は1勝4敗で、16チーム中の15位。対戦相手には同年代ながらスーパーラグビーやプレミアシップでキャップを得ている選手もいた。
「自分はまだまだやな」
立川はそう感じざるを得なかった。
「大学で1年から試合に出られて、満足していた部分が少しありました。でも、世界との差はすごく大きかった。フィジカル、技術、フィットネス……もっとレベルアップしたいという気持ちを強く持ちましたね」
 大会を終えた立川は世界を見据えてレベルアップすることを誓った。

 ところが、である。同年10月、立川は関西大学リーグの試合中に右足前十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。診断で完治までに1年近く要することが判明した。立川にとっては、初めての長期離脱だった。これからという時の不運。しかし、立川は「今となっては、いい経験になった」と言い切る。それは、リハビリ中にあることを自覚したからだ。

 負傷後、立川は天理大の試合をスタンドで観戦していた。思えば、観客席で自分のチームを応援する経験は今までなかった。立川と同じ観客席には、試合に出ている選手を一生懸命応援しているチームメイトの姿があった。
「こんなにも応援してくれる仲間がいるということは、観客席に立ってみないとわかりませんでした。メンバーに選ばれなくて悔しい思いをしている仲間が、あれだけ応援してくれている中で試合に出場できることは本当に幸せなんやなと」

 翌年8月、立川はラガーマンとして精神的に一回り大きくなって、グラウンドに戻ってきた。

 「やりきった」大学ラストマッチ

 3年になった、立川はSOとして、CTBアイセア・ハベア、CTBトニシオ・バイフのトンガ人コンビと強力なフロント3を形成。主将の兄・直道と彼らを中心にした天理大は、関西大学リーグで35年ぶりの優勝を果たした。大学選手権では2回戦で東海大に6対27で敗れたものの、前年、同校に敗れた時のスコアは12対53。確実に差は縮まっていた。学生ラストシーズンに向けて、手応えを掴んだ。

「僕らの代は1年から試合に出る選手が多かったんです。1年目からいい経験を積んで、4年生になれた。このまま順調に成長していけば、さらに強くなるという感覚は自分の中に持っていましたね」

 立川の感覚は確信に変わっていく。彼がキャプテンに就任したチームは、11年の関西大学リーグを7勝0敗という圧倒的強さで連覇。大学選手権1回戦(対法政大)も勝利し、2回戦に駒を進めた。2回戦の相手は関東大学対抗戦2位の慶応大。先制した天理大は後半早々に逆転を許す。しかし立川のトライなどで再びリードを奪い、32対15で勝利し、準決勝進出を決めた。勢いに乗った天理大は、準決勝でも関東学院を42−17で下し、初の決勝進出を果たした。

 決勝の相手は史上3校目の3連覇を目指す帝京大。試合は歴史に残る名勝負となった。前半を終えて、天理大は7対12とリードを許す。後半は互角の攻防が続き、なかなかスコアが動かない。そんな後半31分、天理大のWTB宮前勇規がトライ。立川のコンバージョンは外れたものの、試合を振り出しに戻した。

 その後は時間だけが過ぎ、会場に両校優勝の空気が流れ始めた。しかし、残り1分のところで天理大は反則を犯し、帝京大にPGのチャンスを与えてしまう。これをSO森田佳寿(現東芝)に決められた。直後にノーサイドのホイッスルが鳴り響いた。

「試合前は王者・帝京大相手に、自分たちの力がどれだけ通用するのかがわかりませんでした。それが決勝では天理のラグビーが通用した。結果は悔しいですが、僕自身はやりきったと思いましたね」
 負けはしたが、立川は充実感を得て、大学ラストマッチを終えた。

 思いがけない代表入り

 大学卒業後は、当時、トップイーストに所属していたクボタスピアーズへの入団が決まっていた。大学3年のシーズン終了後にクボタの関係者から声をかけられ、施設を見学したり、チーム状況の説明を受けた。他チームからもオファーを受けながら、クボタを選んだ決め手は何だったのか。

「兄も所属していましたし、これからのチームという印象がありました。完成度の高いトップリーグの強豪チームよりも、これからどんどん強くなっていくチームに入りたいと思っていたんです。また社員として社会勉強もさせてもらいながら練習できる。会社がバックアップしてくれて、社員も応援してくれていると感じたクボタは魅力的でした」

 入社を控えた12年3月には、サプライズな知らせが舞い込んできた。オールジャパンの合宿招集である。大学4年時にA代表に選ばれていたものの、レベルの高さに「代表定着はなかなか難しいかな」と感じていた。にも関わらず、彼はオールジャパンのスコッド入りを果たした。立川は同年から日本代表のヘッドコーチに就任したエディー・ジョーンズの目に留まっていたのだ。

「フラットに攻め上がっていきながら長短のパスを放れるのはすごく魅力的だ」
 エディーHCは立川の長所をこう指摘してくれた。天理大では、チームメイトが小柄だったこともあり、コンタクトを避けるため、常に空いているスペースを探し、そこにボールを運ぶラグビーを意識していた。このスタイルが、エディーHCの掲げるジャパン・ウェイと共通していたのだ。

 本人にとっては降って沸いたようなチャンスを、彼は逃さなかった。合宿後の「HSBCアジア五カ国対抗2012」のカザフスタン戦では初キャップを記録。続くUAE戦では1トライ3ゴールの活躍を見せた。同大会後も立川は代表に招集され、「IRBパシフィック・ネーションズカップ2012」でも全試合に出場した。

 パシフィック・ネーションズ杯では、世界と戦う上での課題も見つかった。体重の軽さである。初めてサモアやトンガの選手と戦った時は、簡単にボールをとられてしまったり、弾き飛ばされることが多かった。エディーHCからは「もっと体付きを大きくしよう」と指摘を受けた。

 以降、立川は重点的にウエイトトレーニングに取り組み、食事管理も徹底。90キロ手前だった体重は、欧州遠征前には95キロにまで増加した。世界仕様へと近づいた体は、フィジカルが強い欧州の選手にも当たり負けしていなかった。欧州遠征ではアウェーでルーマニア、グルジアを立て続けに破る快挙に貢献した。

 まずは15年W杯へ

 昨年6月、日本は初めてウェールズを破る金星を挙げた。この試合で、ジャパンはめまぐるしくパスを回し、世界ランキング5位(当時)を翻弄。80分間を通して選手たちが足を止めることもなかった。
「僕たちは最後まで世界で一番走れるチームを目指してトレーニングを積んできました。12年の欧州遠征、去年のウェールズ戦は80分間、走り続け、ボールを動かし続けたからこそ結果が出た。ジャパン・ウェイを遂行して、勝利できたことは本当に自信になりましたね」

 11月には世界ランキング1位のオールブラックス(ニュージーランド代表)とも対戦した。試合は6対54でジャパンの完敗。立川は前半20分に右肩を負傷し、途中交代する不本意なかたちでピッチを退いた。試合中は同じポジションのダン・カーターやNo.8のリッチー・マコウのプレーを追った。彼らはテレビでずっと見てきた、いわば目標とでもいうべき選手たちだ。

「ブレイクダウンの素早さ、テクニック、体の使い方、キックのタイミング……。こちらがクリーンヒットできないように体をずらす技術はすごかったですね。対戦する前は、ガツンと当たって吹き飛ばしに来るイメージだったのですが、うまくて速い、という印象に変わりました。差はまだまだありましたね」

 しかし、と立川は続ける。
「追いつけないほどの差ではないように感じました。まあ、あの試合が彼らの本気だったのかはわからないですけど(笑)。僕自身は差に愕然するというより、“まだまだ上に行ける”というモチベーションを得ました」

 現在、立川はクボタで牙を研いでいる。当然ながら、ジャパンとクボタの志向するラグビーは違う。クボタはラインを深く広く設定し、外へ外へとボールを展開するスタイルだ。立川の能力がより生きるのは、ジャパンのラグビーと思われる。しかし、立川は現在の環境もプラスに変えようと意識している。

「代表とクボタのラグビーを比べると、ギャップは感じます。しかし、クボタにはクボタでやろうとしているラグビーがある。ですから僕は、自分の持っている良さをクボタのラグビーでも出していきたいと考えています。現在の状況は、プレーの幅を広げるためのチャンス。そう捉えています」

 最後に、ラガーマンとしてとしての目標を聞いた。
「今後は、子供たちに目標とされる選手になりたいですね。『パスがうまい選手は誰ですか?』と聞いたら『立川』と言ってくれるような。もちろんジャパンにも入り続けることにもこだわっていきますし、海外でのプレーにも挑戦できればと思っています」

 来年はいよいよW杯イヤーだ。その4年後にはW杯の日本開催も控えている。
「まずは15年W杯を目指して、そこで結果を残さないといけません。今は19年W杯のことは考えすぎず、15年に向けて一歩一歩やっていきたいですね」

 天理が生んだ稀代の司令塔が、世界的に名を知られる日もそう遠くはない。

<立川理道(たてかわ・はるみち)>
1989年12月2日、奈良県生まれ。やまのべラグビー教室―天理中―天理高―天理大―クボタ。4歳の時にラグビーを始める。天理中時代には奈良県選抜に選出。天理高では3年連続で花園に出場した。天理大では3年時から関西大学ラグビーリーグを連覇。4年じには主将として大学選手権で準優勝を経験した。12年、クボタスピアーズに入団。日本代表には12年に初選出され、現在、20キャップを記録している。ポジションはSOおよびCTB。パス技術の高さ、外国人相手にも当たり負けしない強さが武器。身長180センチ、95キロ。

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(文・写真/鈴木友多)
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