都市対抗、日本選手権と全国の舞台で活躍し、“社会人No.1投手”と謳われた吉田一将。だが、そんな吉田も、これまで順風満帆だったわけではない。小学2年から“野球少年”となった吉田は、中学時代はボーイズリーグに所属し、3年時には全国大会8強入りを果たす。そして、甲子園出場を目指し、青森山田高への進学を考え、中学3年の途中で附属中学に転入した。ところが、いざ高校へ進学すると、控え投手に甘んじる日々を送った。3年間での公式戦登板回数は、10イニングにも満たなかった。そこから、どう這い上がったのか。吉田の過去に迫る。
―― 高校3年間が終わった時、「(2度ベンチ入りした)甲子園で負けた悔しさより、(3年間)何もできなかった悔しさが大きかった」と。その時の悔しさがその後、どう活かされたのでしょうか?
吉田: 高校で不完全燃焼だったことで、「大学でこそ」という気持ちにもなったのかなと。高校時代に味わった悔しさを忘れずに頑張れた大学4年間が、今の自分につながっていると思います。

―― プロへの意識はいつからあったのでしょう?
吉田: 高校時代から目指してはいました。ただ、いかんせん実力がなかった。当時は、プロに手が届くレベルではありませんでしたから、プロの世界への入り口は見えるところにはなかったですね。

―― 高校時代、なかなか芽が出なかったにもかかわらず、そこで諦めなかった理由とは?
吉田: 高校時代はいつもケガで力を出せなかったというのがありました。だから、「ケガさえしなければ、まだ勝負できるんじゃないか」と思っていたんです。だから大学でも野球を続けることに迷いはなかったですね。高校3年間は、正直言って、あまりいい思い出はありません。でも、「ただ練習をがむしゃらにすればいいってものではない」ということを教わりました。とにかくケガをしては成長も何もないんだということがわかったんです。

 紆余曲折の末につかんだ理想のフォーム

 制球力を求め、吉田は大きく2度、フォームチェンジをしている。1度目は日大時代。3年時にオーバースローからサイド気味のスリークォーターへと変えた。しかし、さらなる成長を求め、JR東日本入社後、再びオーバースローへと戻した。紆余曲折を経て、つかんだ理想のピッチングフォームについて訊いた。

―― 大学時代にオーバースローからスリークォーターにフォームをかえたきっかけは?
吉田: 3年の春まではオーバーで投げていましたが、良くも悪くもなくという成績で、球速も少し頭打ちのような状態だったんです。それで「何か変えないといけない」という気持ちがありました。当時、球速は130キロ台半ばで、なぜスピードアップしないのか、その原因を考えた時、ヒジが落ちてリリースが弱いからかなと。それでコーチの指導もあって、身体を横回転したフォームにしたんです。そしたら、すぐにスピードが平均3、4キロ上がり、変化球のキレも出てきた。全体的に安定感が増したんです。

―― ところが、社会人に入って再びオーバースローに戻しました。
吉田: JR東日本に入社後、すぐにコーチに戻すように言われたんです。身長があるので、テイクバックを小さくして上から投げた方が、バッターは絶対に嫌がるから、と。

―― うまくいっていたスリークォーターから、オーバーに戻すことに迷いはなかった?
吉田: 正直、最初は少し「できるのかな」と不安でした。ただ、スリークォーターでは限界を感じていたのも事実でした。最終的に球速は10キロくらいアップして最速146キロくらいまでになっていましたが、自分の中でも「このままではダメかな」ということも感じていたんです。それで、とにかくやってみようと。はじめは感覚がまったく違うので、苦労しました。変化球を曲げようとすると、コントロールがつかなくて、なかなか調整がきかなかった。それでもやっていくうちに、徐々に身体になじんでいきましたね。

―― オーバースローに戻して、良くなった点は?
吉田: スリークォーターの時も、コントロールはそれなりに良かったのですが、ただ左バッターには長打を打たれることが多かったんです。インコースに投げたボールがシュート回転して甘く入ったのを痛打されていました。オーバースローに戻してからは、左バッターへのインコースにも、上から角度がついたままズバッと突けるので、長打が減りました。シュート回転しなくなったので、攻め切れるようになったことが一番大きかったですね。それと、大学時代は決め球といえばチェンジアップだったのですが、スライダーもキレが増して三振を取れるようになった。おかげでスライダーとチェンジアップ、どちらも勝負球にできるようになりました。ひとつ引き出しが増えたことで、ピッチングの幅が広がりましたね。

 楽しみな外国人打者との対戦

 191センチの長身から繰り出す最速148キロのストレートと、多彩にわたる変化球はすべて一級品。低めへのコントロールは抜群だ。社会人時代には1年目の都市対抗、日本選手権、そして2年目の都市対抗と3大会連続でチームを決勝進出へと導いた。プロでも自分のスタイルを貫き、1年目から先発ローテーション入りを狙う。

―― ドラフト当日はいかがでしたか?
吉田: 朝起きた時には、特に何も感じませんでした。ただ、いざドラフト会議が始まってからは、ドキドキしましたね。自分の名前を呼ばれた時は、安心しました。今は不安がないと言ったらウソになりますが、とにかくしっかりとケガをしない身体をつくって、「やってやるぞ」という気持ちです。

―― オリックスへのイメージは?
吉田: いい選手が揃っていて、若さのあるチームだなと。自分と同じ社会人出身の選手も結構多いですし、非常にやりがいがあると思っています。完成されたチームというよりも、これから強くなっていくというイメージがあるので、そこに自分も戦力として加わっていきたいと思っています。

―― 球団からはどんなことを求められていると思いますか?
吉田: 自分の最大の武器は安定感。自分から崩れないところだと思っているので、プロでもそれを強みとしてやっていきたい。球団からは先発ローテーションに入ることを求められていると思うので、そこでどれだけ投げることができるか。当然、これまでよりもバッターのレベルも上がりますが、弱気にならずに自分のピッチングができれば、ある程度の結果は出るのではないかと思っています。

―― プロで対戦したいバッターは?
吉田: 外国人のバッターと対戦したいですね。社会人時代に日本代表として国際大会に出場したのですが、外国人バッターのすごさを痛感したんです。彼らのスイングには一切迷いがなく、割り切っていると感じました。もう、アウトコースのボールには絶対の自信を持っているんです。インコースを突けば抑えられるのですが、それが少しでも甘く入れば、確実に打たれる。その緊張感を、また味わいたいですね。

 座右の銘は「言い訳は進歩の敵」。高校時代のピッチングコーチからの言葉だという。ケガで力が出せず、悔しい思いをしていた吉田にとって、大きな支えとなっていたに違いない。その言葉通り、吉田はこれまで決して言い訳せず、黙々と努力してきた。その野球への姿勢は、プロ入り後も変わることはない。

吉田一将(よしだ・かずまさ)
1989年9月24日、奈良県生まれ。小学2年から野球を始め、中学時代は香芝ボーイズに所属し、3年時に全国大会ベスト8進出を果たす。3年の途中で青森山田中に転入し、翌年青森山田高に進学した。控え投手として2、3年の夏に甲子園に出場するも、登板はなし。高校3年間で公式戦での登板回数は10イニングにも満たなかった。日本大を経て、12年、JR東日本に入社。1年目から主力として活躍し、都市対抗、日本選手権で準優勝の立役者となった。都市対抗では久慈賞、若獅子賞、日本選手権では敢闘賞に輝いた。2年目の13年は不動のエースとしてチームを牽引し、都市対抗では2年連続決勝進出に導いた。191センチ、90キロ。右投左打。

(聞き手・斎藤寿子)

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