「罰があたったかな……」――救助のヘリコプターを待ちながら、湯浅剛はそう思っていた。
 2010年1月、大学卒業を間近に控え、就職も内定していた湯浅は、父親と群馬県のスキー場に出かけた。ゲレンデ途中にはキッカー(ジャンプ台)があった。「ジャンプするのが好きだった」という湯浅は、キッカーめがけて勢いよく滑って行った。すると次の瞬間、空中でバランスを崩し、背中を激しく打ちつけた。起き上がろうとしても身体はまったく動かない。そして、両足に感覚はなかった。湯浅は自分に何が起きたのか、一瞬にして理解したという。そして、後悔の念がジワリジワリと広がっていくのを感じていた。
(写真提供:伊藤真吾)
 薄れた野球への情熱

 湯浅はもともと“野球少年”だった。小学2年で地元の少年野球チームに入り、中学、高校、大学では野球部に所属した。常に1年時からレギュラーの座をつかみ、湯浅の野球人生は順風満帆だったと言っても過言ではなかった。だが、逆にそのことが湯浅の気持ちに緩みを生じさせたのだろう。いつの間にか、野球への情熱は薄れていった。
「高校では甲子園を目指して必死でした。でも、3年の夏が終わってからは、いわゆるバーンアウト状態になってしまった。大学でも野球を続けようとは思っていましたが、もうきつい練習は嫌だなと考えていました」

 高校3年の時、湯浅にはいくつかの大学から声がかかっていた。その中にはプロ野球選手を何人も輩出しているような大学もあった。だが、湯浅が選んだのは、地元千葉県の大学だった。同大野球部では自主性が重んじられ、練習をやるかやらないかはほとんど選手に任されている風習が、湯浅には魅力に映ったのだ。手を抜くこともできる代わりに、結果が出なければどんどん置いていかれてしまう。ある意味、過酷な世界でもあったが、湯浅にはそれなりの自信があった。

 入学後、湯浅は真面目に練習に取り組んだ。自らの実力を示そうと考えていたのだ。すると、1年秋には外野手のレギュラーの座をあっさりと掴んでしまった。この時、湯浅は達成感を感じたという。それ以降も、ケガなどでレギュラーの座を外されたことはあったが、すぐにまた試合に出場することができた。
「少しやれば、いつでもレギュラーに戻れる」
 そんな余裕が、無意識のうちに芽生えていた。

 4年間で2度、全国大会にも出場した。チームではそれなりの結果も出したが、湯浅に充実感はなかった。高校までの“がむしゃらさ”を取り戻せないまま、4年間を終えてしまったからだ。とはいえ、当時そのことで特に悩んでいたわけではなかった。ただ、どこかで後ろめたさを感じていた。その気持ちに、湯浅は無意識にふたをしていたのだ。スキー事故はそんな時に起きた。

「雪面に身体を強くたたきつけられた後、意識ははっきりとしていました。足を触ったら、まったく感覚がなかった。脊髄損傷のことは知識としてあったので、自分の身に何が起きたのかはおおよそ想像はつきました。『やっちゃったな』と……。救助のヘリコプターを待っている間、ふと思ったんです。『これは罰があたったのかもな』って。大学4年間、真剣に野球をやってこなかったですからね」
 後悔の念が湧き出てくるのを、もう止めることはできなかった。

 隣にいた親友の存在

「罰だなんて、そんなことは絶対にないですよ。剛は人のいないところで練習するような選手でしたから」
 そう語るのは、大学時代からの親友である田畑秋成だ。
「剛は猛練習をするというよりも、やる時とやらない時とのメリハリがありました。試合の前はちゃんと逆算して準備していました。自分に何が足りないのかを冷静に分析して、やるべきことはちゃんとやる。みんなが帰ってから、よく一緒に練習していましたよ」

 いつも明るく、ポジティブな湯浅に、田畑は何度も助けられたという。
「僕は結構、ネガティブに考えてしまうタイプなんです。試合で結果が出ないと、すぐにクヨクヨしてしまう。そんな時、剛は『オマエのスイングなら、間違いなく打てる。今日はたまたま来たボールが合わなかっただけ。次は必ず打てるよ』と明るく励ましてくれました」
 なかなか試合に出場する機会に恵まれなかった田畑は、時には心が折れそうなこともあった。だが、そんな時、うまくモチベーションを上げてくれたのが湯浅だったのだ。

 だが、湯浅にとってはやはり大学4年間の自分には納得できていない。それは、隣にいた親友の存在が小さくはなかった。
「田畑は、レギュラーではなかったんです。でも、野球に対してすごく熱かった。練習も本当に頑張っていて、いつも見ていて『すごいなぁ』と思っていました」
 湯浅は無意識に親友と自分を比較していたのだろう。レギュラーではない田畑が、腐ることなく必死に練習に取り組み、試合の結果に一喜一憂している。そんな田畑を湯浅は尊敬するとともに、自らを省みていたのだ。

「今でも時々、練習をさぼりたくなることもあるんです。『ここまででいいかな』と甘い気持ちに負けそうになることもある。でも、その時に必ずといっていいほど思い出すのが、大学時代なんです。『あの時の後悔だけはしたくない』。その気持ちがあるからこそ、頑張ることができているんです」
 今や湯浅の練習熱心さは、チームの誰もが認めるところだ。チームに加入して、わずか2年目で副キャプテンに任命されたのは実力のみならず、人一倍努力しているからにほかならない。その裏には過去の後悔から生まれた覚悟があったのである。

 日本代表への道のり

「いつか、自分もここに入りたいな」
 湯浅が初めて日本代表合宿を目にしたのは、車椅子バスケットを始めてまだ1カ月のことだった。。
「オマエも代表を目指すなら、見に行ってみるといいよ」
 当時、代表のコーチを兼任していた及川晋平NO EXCUSEヘッドコーチ(13年7月、日本代表ヘッドコーチに就任)からの誘いがきっかけだった。

「もう、すごいの一言でした。激しさもスピードも、さすがは日本のトップ選手だと思いました。まだ車椅子バスケットを始めて間もないころでしたから、自分との差に圧倒されっぱなしでしたね。でも、いつか絶対に自分も、代表に選ばれるような選手になろうと思いました」

 湯浅が車椅子バスケットを始めたのは、入院していた国立障害者リハビリセンター(埼玉県)で行なわれていた地元チームの練習を見たことがきっかけだった。その激しさとスピード感にひと目で魅かれたのだ。退院後、母校の中学校を練習拠点にしていたNO EXCUSEに加入した。その時から湯浅の目標のひとつは、日本代表としてパラリンピックに出場することだった。その思いが、代表合宿の見学で、さらに強まったのだ。

 そして今、徐々に現実味を帯び始めている。昨年、新指揮官に就任した及川ヘッドコーチの下、16年リオデジャネイロパラリンピックに向けての活動がスタートした。その第1回合宿に、湯浅は代表候補として参加した。そして今年1月、再び湯浅の元に代表合宿(2月12〜16日)への招集通知が届いた。合宿を前に、湯浅はこう語っていた。

「前回は一次で落とされてしまったんです。今回もどこまでいけるかわからないですけど、いつ代表合宿に呼ばれてもいいように準備はしてきました。今回の合宿で手応えをつかむのか、それともまた壁にぶち当たるのかはわかりませんが、やることはやってきた。だから、今の自分を知れるいいチャンスだと思っています」

 果たして、どうだったのか――。
「最初の基礎的なスキルテストで、力のなさを思い知らされました。ただ、ゲーム形式の練習では、落ち着いてプレーすることができたし、周りの選手のプレーにアジャストできたかなと。『今のタイミングOK!』とか『ナイス!』とか、そんな一言を言ってもらえるのが嬉しかったですね。1度目はもういっぱいいっぱいで、周りの声を聞く余裕もなかったですから(笑)」
 数多くの課題を感じながらも、ほんの少しではあるが、手応えもつかんだという湯浅の声は、意欲に満ち溢れていた。

 膨らみ始めた周囲からの期待

 04年アテネ、08年北京とパラリンピックに出場し、昨年から再び日本代表に復帰したNO EXCUSEの先輩、森紀之は湯浅についてこう語る。
「確かに課題はまだまだたくさんあります。ただ、車椅子バスケットを始めて3年でここまでのレベルにきているというのはすごいことですよ。もともと野球をずっとやってきただけあって、運動センスは抜群です。バスケットの経験がないというのに、チームに入ってすぐにしっかりとしたシュートフォームができていましたからね」
(写真:湯浅に大きな期待を寄せている森<左>)

 障害の重度によって与えられるポイントが同じ湯浅と森は、ポジションも似通っている。現在、湯浅はチームでは主にシューターとしての役割を与えられているが、森としてはゆくゆくは自分のポジションであるポイントガード(PG)を担ってほしいと考えている。そのため、湯浅にはすべてを伝えようとしている。森自身、そう思える後輩は湯浅が初めてだという。

「昨年から相手に厳しくマークされ、チームからはレベルの高いものを要求されるようになり、湯浅は悩むことも多くなったと思います。でもそれは、彼が認められてきた証拠。僕が彼にアドバイスしているのも、それだけのことができる選手だと思っているからです。そうでなければ、僕は自分から教えようとはしませんよ。リオでの日本代表入りは、決して簡単ではありませんが、可能性は十分にあると思っています」

 今後の湯浅に期待を寄せているのは、森だけではない。親友の田畑もそのひとりだ。田畑は昨年5月、「内角総理大臣杯 日本車椅子バスケットボール選手権大会」を観戦し、初めてバスケットプレーヤーの湯浅を目にした。想像以上の激しさに「すごいことをやっている」と感じたという。そして、湯浅自身の変化にも田畑は驚きを隠せなかった。

「大学時代、どんなに素振りをしても、剛は手の皮がむけたり、マメができることはなかったんです。触ると柔らかくてプニョプニョしていた(笑)。ところが、選手権で見た湯浅の手は、ゴツゴツしていました。その手を見て、『とんでもないことをやっているんだな』と思いました」
 そして、こう続けた。
「これからの剛にはメチャクチャ期待していますよ。必ず何か大きいことをやってくれるヤツだと思っています。リオにも日の丸を背負った剛を応援に行きたいと思っています」

 一度は失いかけた“がむしゃらさ”を取り戻した湯浅。今度こそは、限界までやり切るつもりだ。チーム悲願の日本一、さらにはパラリンピックでのメダル獲得へ――。湯浅の挑戦は、まだ始まったばかりだ。

(おわり)

湯浅剛(ゆあさ・つよし)
1987年11月16日、千葉県生まれ。兄の影響で、小学2年から野球を始める。千葉商科大付属高校、中央学院大学では1年時から外野手のレギュラーとして活躍した。大学2年秋には、明治神宮大会に出場する。大学卒業を控えた2010年1月、スキー場で激しく転倒し、脊髄を損傷。入院中に知った車椅子バスケットボールに興味を持ち、12年1月にNO EXCUSEに加入した。2年目の昨年から主力として活躍。日本選手権、DMSカップ、のじぎく杯と主要3大会での準優勝に大きく貢献した。昨年に続いて、今年も副キャプテンを務めるなど、若手のリーダー的存在となっている。日本代表候補として合宿にも参加し、2016年リオデジャネイロパラリンピック出場を目指している。

(斎藤寿子)
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