日本初のプロサッカーリーグ・Jリーグは15日、開幕20周年を迎えた。スタートは10クラブだったが、現在はJ1、J2合わせて40クラブでシーズンを戦っている。
 リーグ創設の立役者といえば初代チェアマンの川淵三郎(現日本サッカー協会最高顧問)である。学校と企業中心だった、この国のスポーツのあり方を疑問視し、「地域密着」の旗を掲げた。若き日、欧州で老若男女、皆に愛され、なおかつ充実したスポーツ施設を併せ持つ“オラがクラブ”を目のあたりにしていた川淵には、これを日本でも実現したいとの夢があった。

 だが、改革に抵抗はつきものだ。急進的とも言える川淵の手法に対しては、「時期尚早」「前例がない」との批判が根強く、必ずしも追い風に恵まれての船出ではなかった。

 私見だがリーダーにとって重要なのは「判断」ではなく、「決断」である。孟子の言葉にある「千万人と雖も吾往かん」。川淵には、この心意気があった。
 ある会議で川淵は抵抗勢力を前に机を叩いて力説した。「時期尚早と言う人間は百年経っても時期尚早と言う。前例がないと言う人間は二百年経っても前例がないと言う」。川淵の奮闘は、そのままリーグの歩みと重なる。

 プロリーグ誕生による底辺の拡大は日本代表の強化にもつながった。現在、代表はW杯5大会連続出場に王手をかけているが、プロ化するまでは1度もW杯に出場できなかったのだ。その意味で代表の躍進はプロ化の果実のひとつと見ることもできる。

 川淵は代表の改革にも尽力した。今では当たり前となった外国人監督の採用も川淵の指揮によるものだ。初の外国人監督ハンス・オフト。「ドーハの悲劇」により、米国W杯出場こそならなかったが、オランダ人の手によるモダンサッカーは、日本の可能性を可視化したものだった。

 当時、協会の強化委員長でもあった川淵は、なぜにオフトを代表監督に指名したのか。本書(講談社)から答えを引く。<「プロ」であるラモスやカズにも「オレの言うことを聞けないのならチームから出て行け」と言える強さを持ったプロの監督。これはもう外国人監督しかありえなかった>

 興味深いのは「アルマトイの夜」の秘話だ。この時、川淵は協会副会長。加茂周率いる代表はフランスW杯出場に黄信号が灯っていた。カザフスタンの首都(当時)で同国代表と引き分け、川淵らは加茂の解任と岡田武史コーチの昇格を決定する。<人を辞めさせるのは本当にエネルギーを使う>。本書では、その場でのやりとりがリアリティあふれる筆致で再現されている。剛腕ゆえに敵も多かった川淵だが、敏腕や辣腕のリーダーでは日本サッカーに“我が世の春”は訪れなかっただろう。「虹を掴む」(川淵三郎著・講談社)

<上記は2013年5月29日付『日本経済新聞』夕刊に掲載されたものです>
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