9日間にわたって熱戦が繰り広げられたソチパラリンピック。日本選手団は金3、銀1、銅2の計6個のメダルを獲得した。パラリンピックはオリンピック同様、4年に一度の大舞台、そして厳しい勝負の世界だ。メダル獲得に喜ぶ選手がいる一方で、悔しい結果に終わった選手もいる。アルペンスキー立位カテゴリーの小池岳太もそのひとりだろう。滑降と回転は途中棄権。スーパー大回転と大回転は9位。スーパー複合は10位。表彰台を目指していた小池にとって、決して納得のいく結果ではなかったはずだ。しかし、スキーブーツチューンナッパー広瀬勇人の小池への期待は少しも薄らいではいない。「岳太への期待は今にとどまらず、まだまだこれから」と可能性を感じているからだ。そこには、チューンナッパーだからこその視点がある。
 広瀬が小池に初めて会ったのは、今から12年前のことだ。当時、広瀬はブーツチューンナップも手掛けるコーチ兼スキーレーサーとして、野沢温泉(長野県)の北竜湖を拠点とするチームによく顔を出していた。そのチームに大学生の小池が入ってきたのだ。小池は前年に交通事故に遭い、左腕は麻痺で自由がきかなくなっていた。高校時代からサッカー一筋だった小池だったが、その年の冬からパラリンピックを目指して本格的にスキーを始めたのだ。

「正直言って、へたくそでしたよ(笑)」
 そう言って、広瀬は当時のことを振り返った。
「今ではとても想像できないほど、バランスも悪かったし、遅かった。でも、すごくマジメで根性がありました。それは今でもまったく変わらないですね」

 右手だけの片手ストックのために、左右のバランスをとるのに苦労していた小池に、広瀬は出来得る範囲でのアドバイスをしたという。最初の頃の小池は、どうしても麻痺した左腕に対しての意識が強かった。そこで広瀬は、肩や下半身といった健常な部分をどう使うかに意識を持つことを提案した。
「本人としては、左腕をどうカバーしようかということを一番に考えてしまっていたと思うんです。もちろん、それは大事なことではありますが、それ以上に使える部分をちゃんと有効に使うことの方が重要なんじゃないかなと。結果的に麻痺している左腕を補おうとしていた動きが、バランスを崩す原因になっていたり、ということに気づくこともあったようですね」

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限にいかせ」とは、多くのパラリンピアンたちの信念となっている言葉だ。広瀬が小池に伝えたのは、まさにこういうことであろう。
「障害のことに気を遣いすぎて、本質的な部分を伝えることができないというのは、あまり意味がないことだと思っているんです。僕は岳太に対して、彼が左腕が使えないことを口にしないようにという遠慮はしません。だからこそ、『あぁしてみよう、こうしてみよう』という提案ができるし、岳太とも信頼できる仲になれていると思います」

 “無頓着さ”が生み出す大きなズレ

 広瀬は当初から小池のブーツのチューンナップを手掛けてきた。しかし、小池は一度、広瀬の元を離れたていた時期があったという。それは「岳太にとっては非常に重要なことだった」と広瀬は語る。
「もちろん、自分の腕には自信はあります。でも、決して僕だけが全てだとは思っていません。どこでチューンナップをするかは、選手の自由ですし、他人に流されずに自分の意思で決めるということは大事なことですからね。一番重要なのは、ブーツチューンナップの重要性を認識していること。そして、選手自身が納得したブーツを作ることなんです。僕のチューンナップがいいと思えば、また選手は必ず戻ってきてくれる。その自信もあります」

 数年後、小池は広瀬の元へと戻ってきた。バンクーバーパラリンピックを直前に控えた2009−10シーズンに入る少し前のことだった。しかし、小池のブーツを見て、広瀬は驚いた。世界最高峰の舞台に臨もうとしている選手だというのに、小池の足にブーツがまったく合っていなかったのだ。
「スキー板の性能を引き出すためには、スキー板と一体化することが重要なんです。それには選手とスキー板をつないでいるスキーブーツがフィットしていることが大前提です。ところが、岳太のブーツはまったく足に合っていなかった。それもわずかな差ではなかったんです。それこそ25センチサイズの選手が27センチサイズを履いているというくらい、明らかに違っていました」

 それほど大きな差に、なぜ小池は違和感を持たなかったのか……。広瀬に言わせれば、「無頓着だった」のひと言だという。
「ブーツはかたいので、バックルを締めると、足とスキー板をつないでしまう。脱げることはないんです。ですから、無頓着な人は合っていないということもわからない。当時の岳太はそのひとりでしたね」

 その後、小池のスキーブーツは大幅にサイズダウンされ、正しい骨格の配列でスキー板に乗れるようにインソールやシェルの加工とバランス調整などが施された。そのブーツを履いて初めて滑った小池は「全然、違いました!」と嬉しそうに笑顔で報告に来たという。広瀬にしてみれば、「おいおい、今頃!?」と言いたくもなったのは当然だろう。だが、半ばあきれると同時に、広瀬は小池の素直さも感じていた。小池は指摘されたことを素直に受け入れ、深く反省するタイプ。さらにそれだけではない。彼は自らトライすることのできる選手なのだ。

 “未熟さ”ゆえの可能性

 今シーズン、ソチパラリンピックに臨むにあたり、小池はブーツにある工夫を凝らしていた。小池は、左ヒザが内側に入り気味になっていた。これではスキー板に正確に身体の動きを伝えることはできない。そこで左足のブーツの裏の内側部分にテープを貼って角度をつけ(写真)、ヒザが真っすぐ前に入るようにしたのだ。さらにテープを何枚貼るかにもこだわった。最もバランスよくポジションがとることのできる角度を求めると同時に、パラリンピックのレギュレーションも考慮しなければならなかったからだ。
(写真:白い部分がテープを貼り、角度をつけた箇所)

 このブーツの裏面にテープを貼る調整方法は、広瀬が小池にアドバイスしたものだった。広瀬は小池のみならず、他の選手にも同じ調整方法を伝えている。だが、実際にやる選手は小池とごくわずかな選手だけだった。
「こちらとしては完璧にチューンナップはしているつもりですが、それでも実際に滑った時の微妙な感覚というのは選手にしかわからないですよね。ですから、本当は選手自身で調整できるといいのですが、やっぱり自分でいじってバランスが悪くなるのが怖いんでしょうね。実際にやる選手はほとんどいません。でも、岳太は自分からトライした。そのことにも彼の成長を感じましたし、これもまた、ひとつの才能だなと思いましたね」

 広瀬は小池のことを“少年”だと思っている。未熟さと、だからこその無限の可能性を感じるからだ。
「正直、世界を目指すのなら、これくらいはやっておかなければいけない、ということはまだまだ岳太にはあるんです。でも、彼は非常に素直なので、言えば言うほど、どんどん吸収して自分の力にしていく。まるで成長期の少年のようなんです。僕は会うたびに、彼に変化を感じる。だからこそ、まだまだ伸びていくだろうなと期待しているんです」

 既に小池は、広瀬に2018年の平昌パラリンピックも目指すことを宣言している。
「Koike Gakuta」
 表彰式でその名が呼ばれる日が来ることを、広瀬は楽しみにしている。

(おわり)

広瀬勇人(ひろせ・はやと)
1970年7月13日、北海道生まれ。小学4年からスキーを始め、高校、大学ではスキー部に所属。大学卒業後、プロスキーヤー、コーチとして活動する傍ら、スキーブーツのチューンナップを手掛けてきた。代表を務めるオーダーインソール工房「ハッチェリー」では、ウォーキングから野球、サッカー、ゴルフ、バドミントンなど、一般からアスリートまで幅広いニーズに応えている。

(文・写真/斎藤寿子)
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