乾達朗は、2010年2月にシンガポール(S)リーグのアルビレックス新潟シンガポール(新潟S)に入団した。新潟Sのスタジアムは小さく、グラウンドはボコボコ状態。「こんなところもあるのか」と乾が驚くほど、日本の環境とはまったく違っていた。しかし、彼は悲観したわけではなかった。「それまでと違う環境でサッカーができることに、楽しさを感じていました」。所属先を探している間は、不安の中でサッカーを楽しむ余裕などなかった乾にとって、プロサッカー選手として、新たな環境で勝負できることが何よりも嬉しかったのだ。
(写真:©S.C.sagamihara)
 乾は新潟Sで「最も影響を受けた」という指導者に出会った。当時の新潟S指揮官・杉山弘一だ。杉山は浦和レッズ、東京ヴェルディなどでプレーした元Jリーガー。10年から新潟Sの監督に就任していた。その杉山から、乾は何を教わったのか。
「杉山さんがよく言っていたのは、“サッカーは、サッカーでしかうまくならない”ということ。ですから、練習ではボールを使うメニューしか行わないんです。パスを『止める・蹴る』といった基礎的な練習も多かったですね。そのおかけで、たとえば『自分はこういう回転のボールをトラップするのが苦手だったのか』と改めて、自分のプレーを見つめ直すことができました」

 乾はそれまで、考えるよりも体が先に反応する、いわゆる感覚派のプレーヤーだった。だが、杉山の指導を受けることによって、彼は常に考えてプレーを選択するようになった。
「杉山さんは『この位置にボールを止めたら、ここにしっかり蹴れるだろう?』とか、『こういうポジショニングをすれば、敵のスペースが空く』という風に、シンプルかつ的確なアドバイスをしてくれました。今まで気づいていなかったことも多くて、楽しみながらサッカーを学べましたね」
 同年、乾は途中加入ながらレギュラーを確保した。リーグ戦29試合に出場し、6ゴールという成績でシンガポールでの1年目を終えた。そして、彼は翌年に大きな飛躍を遂げる。

 意識改革がもたらした飛躍

 新潟Sで2シーズン目を迎えるにあたり、乾はある意識改革を行った。それは、数字にこだわることだった。乾はジェフユナイテッド千葉・市原リザーブスで、コンスタントに出場機会を得ていたが、トップチームへのアピールは実らず、契約満了となってしまった。彼は、その要因のひとつが「数字にこだわっていなかったから」と考えていたのだ。
「以前は、チームのために、気の利いたプレーをすることに重点を置いていました。もちろん、それも大事ですけど、プロで最も評価されやすいのは数字ということに気付いたんです。攻撃の選手である僕は、ゴール、アシストをどれだけ記録できるかにこだわるようにしました」

 意識改革の効果はてき面だった。乾は試合中、ゴールに近いエリアでプレーする場面が増え、ゴールを奪うための過程にも変化が見られた。それまで乾はパスを受けた後、ドリブルを仕掛けることが多かった。しかし、11年シーズンは相手と1対1の局面でも「これは抜けない」と判断すれば、味方のフォローを待ち、数的優位な状況をつくり出すようになった。積極的かつより確実にゴールへ向かうようになったのだ。同年、乾はリーグ戦33試合に全て出場し、14ゴール。アシストは正式記録が残っていないものの、本人の記憶によれば20近い数字を残したという。

 乾の活躍に比例し、新潟Sの成績も向上した。リーグ戦はチーム史上最高位の4位。そしてシンガポールカップで優勝し、悲願の初タイトルを獲得した。チームの中心だった乾はシーズン後の表彰式で、リーグの最優秀若手選手賞、最優秀MF、ベストイレブンに輝いた。

 まばゆい活躍を見せた乾を、他チームも放ってはおかなかった。彼のもとにはSリーグのチームのみならず、他の東南アジアのチームからもオファーが届いた。その中で、乾はSリーグのシンガポール・アームド・フォーシズFC(S.A.F FC、現ウォリアーズFC)への移籍を決断した。S.A.F FCはSリーグ8回、Sリーグカップ4回の優勝経験を誇り、アジアチャンピオンズリーグにも出場したことのある強豪だ。
「S.A.F FCは一番熱心に獲得を希望してくれていました。シーズン中の夏頃から毎週のように状況を伺う電話がかかってきましたからね。また、せっかく海外でプレーしているのだから、周りが外国人しかいないローカルチームでもやってみたかったんです」

 生き残るために必要だったエゴ

 12年シーズン、乾は新たな環境でスタートを切った。チームに日本人は乾と同年に新潟Sから移籍してきた選手の2人だけ。スタッフ、チームメートはシンガポール人のほかは他国からの助っ人だった。言うまでもなく、乾も助っ人のひとりである。移籍1年目は、外国人選手としてプレーする難しさを感じた。

「乾、頼むぞ」
 S.A.F FCのシンガポール人監督からの指示はそれだけだった。つまり、結果を出せ、ということである。
「ボールを受けたら『仕掛けろ』と言われました。前にいる選手と勝負して勝つ。それだけです。それで結果を出せば評価されるし、出せなければ評価されない。すごくシンプルであり、難しい部分でもありました」
 チームのために動く日本のサッカーが体に染みついている乾は移籍当初、監督から求められるエゴイスティックなプレーに徹することができずにいた。

 しかし、チームメートのFWミスラフ・カログラン(ボスニア・ヘルツェゴビナ)を見て、乾の考えは徐々に変化していった。カログランは、エゴの塊だった。たとえシュートコースに相手DFがいても、シュートを打つ。カログランがゴール近くでボールを持っている時、乾の方がゴールできる確率の高い位置にいても、彼からパスが来ることはなかった。
「カログランは100パーセント、ゴールすることしか考えていませんでした。自分の力だけでゴールをとる。それがチームのため、という考え方だったと思います」
 乾は、居残りでシュート練習を繰り返した。どの位置からもゴールを狙えるようにするためである。「契約を切られないため、エゴイストになる必要もある」と割り切り、それまで以上にゴールを意識するようになった。

 また、外国人選手としていつ契約を切られるかわからない状況は、乾を心身ともにタフにした。シンガポールでは、外国人選手が負傷しても、回復を待つことなく、すぐに代わりの選手を連れてくることが日常茶飯事。そのため乾はプレーできる状態であれば、体に多少の痛みを抱えながらもピッチに立ち続けた。S.A.F FCでの1年目は、リーグ戦で24試合に出場して3ゴール。Sカップでは6試合で3ゴールの活躍を見せて、チームを優勝に導いた。

 戸田和幸から学んだこと

 13年シーズンには、ある選手と再会を果たした。元日本代表MF戸田和幸である。同年、S.A.F FCからウォリアーズFCに名称を変更したチームが、マーキープレーヤー(サラリーキャップ制の制限を受けずに年俸を設定できる選手)として戸田を獲得したのだ。実は、乾は戸田のウォリアーズ入団に一役買っていた。2人はジェフ千葉の同僚(08年)。それが縁で、戸田とシンガポールの日本人代理人を仲介したのだ。戸田のウォリアーズ入団は、乾をまたひとつサッカー選手として成長させるきっかけとなった。

 戸田はいつも一番早く練習場に訪れ、体幹や筋力トレーニングに励んだ。鍛え上げられた肉体は、乾いわく「34歳(当時)の体ではなかった」という。
「試合でも誰よりも走っていましたからね。戸田さんのそういう姿を見せられると、自分も甘えていられない。もっと努力しなければいけないと、刺激を受けました」

 また、乾は経験豊富な戸田によくアドバイスを求めた。ウォリアーズには乾が受けたいタイミングでパスを出せる選手が少なく個人で打開する力が重要なのは認識していた。しかし、乾には「今、パスを出してくれればチャンスなのに」という気持ちがどうしてもあった。ところが、である。戸田に、その悩みを相談すると、意外な答えが返ってきた。
「じゃあ、右サイドから左サイドまで、もしくは縦に40メートルくらいの長い距離を走ってみればいいじゃないか。そういう動きがお前には足りない。いいタイミングでパスが出てこないんだったら、もっと味方がタイミングを長くとれるような動きもしないとパスは受けられないよ」

 戸田の言う通りだった。そこで乾は試合中、フリーランニングの距離を伸ばしたり、走る角度を変えたりして、味方からのパスを引き出すために工夫した。すると、徐々にではあるが、いいタイミングでパスを受けられる場面が増えてきたのだ。相手を変えるためには、まず自分が変わらないといけない――。乾は「こうやってプレーの幅が広がっていくんだな」と実感した。同年、乾はリーグ戦20試合出場して5ゴールという成績だった。芳しい結果ではなかったが、戸田から多くのことを学んだシーズンはかけがえのないものとなった。

 成長した姿を日本で示す

 乾は13年シーズン限りで、ウォリアーズとの2年契約を満了した。彼には、Sリーグのチームからいくつかオファーが来ていた。しかし、乾はそれらを断り、日本へ帰ることを決意した。日本のチームからオファーがあったわけではない。なぜ、乾は安定してプレーできる環境を捨ててまで、日本復帰を決めたのか。
「4年前、夢半ばでチームを去った時の悔しさは、シンガポールでも忘れたことはありませんでした。日本で勝負して、活躍したい気持ちがずっとあったんです」

 また、応援してくれる人たちの存在も大きかった。日本で目立った活躍ができなかったにも関わらず、乾には日本から応援してくれるサポーターがいた。中には、シンガポールまで応援に駆け付けてくれた人もいたという。そして、「また日本で乾選手のプレーが見れるといいな」という声も聞いていた。応援してくれる人たちに、シンガポールの4シーズンで成長した姿を見せたい――。「今がタイミングかな」。こうして乾は4年ぶりに日本でプレーすることを決めたのだ。

 帰国後、乾は代理人を通じて複数のJ2チームの練習に参加し、契約を目指した。しかし、いずれも契約には至らなかった。それでも、シンガポールで自信を得た彼が、4年前のように、不安に駆られることはもうなかった。乾は代理人に次のチームを探してほしいと頼んだ。そこで紹介されたのが、J3のSC相模原だった。今年1月半ば、乾は契約を目指して相模原の練習に参加。その1週間後、チームから契約を打診され、彼は「プレーできる場があるなら、そこで一生懸命やるだけ」と入団を即決した。

「海外で活躍するためには、文化、言葉の壁、環境の問題をクリアしないといけません。その意味で、乾はタフな選手。また、優勝も経験しているので、勝つメンタリティーを備えていることも魅力でした」
 相模原監督の木村哲昌は、乾を獲得した理由をこう明かした。乾はチームでは貴重なレフティーとして、攻撃の中心になることが期待された。乾自身も「得点は2桁を目指したい」と意気込んでいた。

 J3が開幕し、残念ながら乾は3試合連続でベンチ外だった。第2節終了後に話を聞くと、彼は「悔しいです。でも、やるしかないので、練習から結果にこだわってアピールしていきますよ」と前を向き、こう続けた。
「試合に出て活躍しないと日本に帰ってきた意味がないですからね」

 乾の目から闘志は消えていない。ここからが勝負だ。

(おわり)

<乾達朗(いぬい・たつろう)>
1990年1月30日、千葉県生まれ。ジェフ千葉Y―ジェフ千葉―新潟S―ウォリアーズFC―SC相模原。小学2年でサッカーを始める。小学6年時には千葉県選抜としてスペイン遠征に参加。中学からジェフ千葉のジュニアユースに所属。ユース昇格後の07年には、クラブユース選手権で3位となった。08年、ジェフのトップに昇格。その後はジェフRに登録され、2年間、プレーした。10年からシンガポールリーグの新潟Sに移籍。11年には最優秀若手選手、最優秀MF、ベストイレブンを受賞した。12年から昨季までウォリアーズFCでプレー。今季からSC相模原に加入し、4年ぶりに日本でプレーしている。選抜・代表歴は千葉県選抜、千葉県国体選抜、U−15日本代表候補、U−16代表、U−17代表(07年は候補)。ドリブル、パス、クロスの質が高い技巧派レフティー。精度の高いセットプレーも武器。身長170センチ、64キロ。背番号26。

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(文・写真/鈴木友多)
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