「六大学の審判員をやってくれないか」
 早稲田大学野球部の先輩からそう言われたのは、林清一が31歳の時だった。早稲田実業高校、早大、大昭和製紙と野球を続けてきた林だったが、きっぱりと野球から身を引き、家業を継ごうと東京に戻ってきた矢先のことだった。一度は断ったものの、「やってみるか」と軽い気持ちで引き受けた。その時はまさか、27年も続けることになるとは……。そして審判がいかに激務であるか、まったく予想していなかったのである。
 林が自分の考えが甘かったということに気づくのに、そう時間はかからなかった。
「実は、審判員なんて簡単にできるだろう、と思っていたんです。ところがいざやってみると、難しいの何のって。それこそ最初は、打球を見失ったこともありました。気づいた時には野手のグラブに収まっていたり……。そうすると、スタンドから『林! 下手くそ!』って怒鳴られるんです。いやいや、恥なんてものじゃない。大恥をかいていましたよ。そういう日は、もう落ち込んでね。悔し涙を流しながら帰ったものです」

 もともと、望んでやり始めたわけではない。こんなに辛いのであれば、一層のことやめてしまおうか……。何度そう思ったかわからない。だが、林はやめなかった。
「一度引き受けたものを、そう簡単にやめるわけにはいかない。とにかく、やれるところまでやってみよう」
 林の真面目な性格がそれを許さなかったのだ。

 そんなある日のことだった。林に、ある人物が声をかけてきた。当時、六大学の審判員の指導を行っていた郷司裕だ。日本のアマチュア野球界で、彼の名を知らない者はいないと言っても過言ではない名審判である。もちろん、林も知っていた。
「私が高校3年の時、夏の地方大会は決勝まで行ったんです。その時の球審が郷司さんでした。私ら選手は喜んだものです。他の審判の名前はひとりも知りませんでしたが、郷司さんは有名でした。甲子園の決勝でも球審をやるような人でしたからね。選手からも尊敬されていたんです」

 そんなアマチュア審判員の重鎮に、林はこう言われたという。
「失敗してもいいんだよ。でも、同じ失敗を繰り返してはいけない。本当の名審判というのは、名前を覚えられないものだからね」
 それが林の審判員としての信念となった。
「確かに私が選手の時も、審判の名前や顔なんて、気にしてはいなかった。それは、スムーズに試合が進行していたからなんですよね。でも、ちょっとでもミスジャッジすると、『あれ? 今日の審判は誰だ?』となるわけです。つまり、選手や観客が勝っても負けても『今日はいい試合だった』と思えるのは、審判が目立たなかった時こそなんです」

 降雨ノーゲーム宣告の舞台裏

 とはいえ、ゲームがスムーズに進行するためには、時に審判員は威厳をもって対処しなければならない。ある年の春のセンバツのことだった。大会第3日を迎えたその日、天候は不安定で最後の第4試合が始まる前に小雨が降り出した。しかし、試合は可能だと判断され、予定通り行われた。ところが、徐々に雨脚が強まり、最後には土砂降り状態となった。林は選手たちの安全を考慮し、6回裏の途中で試合を中断させた。そして約20分後、降雨ノーゲームを宣告したのである。しかし、ノーゲームを宣告するには、実はひと悶着あった。

 6回表を終えた時点で0―5と5点ビハインドを負っていた高校が、その裏に一挙5点を挙げて同点としていた。なおも無死一、二塁のチャンス。中断となったのは、そんな場面でのことだった。試合を続けたいと思うのも無理はなかった。しかし、林がグラウンドをチェックすると、内野にはいくつもの水たまりができており、とても試合を行なうことはできなかった。

「ピッチャーのボールが滑って、バッターにも危険です。残念ですが、ノーゲームとします」
 審判団での協議の末に、両校監督にそう告げるや否や、同点に追いついた高校の監督がこう反論した。
「無死一、二塁ですよ。うちが同点になったから中止にするんですか!?」

 そこで林はこう切り返した。
「では、続けましょう。その代わり、どんなことがあっても9回までやりますよ。それでいいですね」
 林の覚悟を感じ取ったのだろう。「わかりました。お任せします」と渋々ながらも承諾したという。

 常に冷静に、そして誠実に判定を下さなければならない審判員。何事にもブレないことが重要なのだ。
「審判員がおどおどしたり、迷っていては、プレーする方も不安になってしまう。だから私たちは真摯な態度で堂々としていなければいけないんです」

 “ブレずに堂々と”が審判員の務め

 それは国際大会でも同様である。林は、2004年アテネオリンピックをはじめ、数々の国際大会で審判員を務めてきた。ジャッジに対して不平・不満を言いに来る時の迫力は、国内大会の比ではない。しかし、林はそんな時こそ、堂々とした態度を崩さなかったという。

「外国人はこれでもかというくらいに顔を近づけて怒声を浴びせてくる。もう、私の顔に唾がバンバン飛んでくるんですよ(笑)。でも、目をそらさずにじっと聞くんです。そして、『今のはこうだった』としっかりと答える。そうすると、向こうも言いたいことを言ったら、パッとベンチに下がるんです。あまり言いすぎると、退場になることがわかっていますからね。それに、監督にとって抗議はある意味、パフォーマンスでもある。選手に対して『ちゃんと言ってきたから、大丈夫だ』と。そうすれば、選手も落ち着くわけです。監督としてのメンツも保てますしね。だから、審判員はちゃんと聞いてあげないとダメなんですよ」

 そして国際大会ならではの、こんなエピソードも明かしてくれた。
「日本ではよく、打席に入る前に球審に対して一礼する選手がいますよね。それと一緒で国際大会では、打席に入る前に、よくバッターが私の足をバットでコンコンと軽く叩くんです。『ちゃんとレガースをはめているか。ケガをするなよ』という意味なんですよ。だからこっちも『OK』と答える。そうすると、『よし、じゃあ、頼むぞ』という表情を見せて打席に立つんです。礼儀正しい選手が多いですよ」

 歴史的瞬間や名勝負は、選手や監督はもちろんのこと、観客がつくり出す会場の雰囲気や天候など、さまざまな要素が絡み合って作り出される。そして、もうひとつ欠かすことができないのが審判員の存在だ。顔も名前も知られることはほとんどない“ルールの番人”。しかし、彼らが果たす役割は決して小さくはない。

(おわり)

林清一(はやし・せいいち)
1955年5月25日、東京都生まれ。小学5年の時に、友人らと「調布リトルリーグ」を結成。6年時には近隣4市の選抜チームで全国優勝を達成した。同年米国で行われた世界大会でも優勝する。早稲田実業高校に進学し、投手として活躍。2年春には関東大会で優勝した。3年夏はエースとして期待されるも、肩を故障し、外野手として出場。都大会決勝で敗れ、甲子園出場はかなわなかった。早稲田大学、大昭和製紙では打撃投手、マネジャーとしてチームを支えた。31歳で父親が経営する林建設に入社後、知人からの依頼で審判員を務める。東京六大学野球リーグ、高校野球、社会人野球と、27年間にわたる審判員生活で約1200試合を裁いた。2004年には日本人で唯一、アテネ五輪の審判員を務める。12年に審判員としての現役を引退後、一般財団法人日本リトルシニア中学硬式野球協会理事長となる。

(文・写真/斎藤寿子)
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