走る、投げる、跳ぶ――。陸上競技の三大要素全てをこなさなければならないのが、十種競技である。2日間で100メートル、400メートル、1500メートル、110メートルハードル、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げ、走り幅跳び、走り高跳び、棒高跳びの計10種目の合計得点を争う。いわば陸上のオールラウンダーが挑戦する競技であり、ゆえに頂点に立つ者を「キング・オブ・アスリート」と呼ぶ。現在、日本の王座に君臨しているのが日本選手権5連覇中の右代啓祐だ。身長196センチ、体重95キロの恵まれた体躯を生かし、投擲種目を得意とする右代は、アジア、そして世界の “キング”の座を虎視眈々と狙っている。


 今年6月、右代は長野市営陸上競技場で行われた日本選手権混成で5連覇を達成した。?5はもちろんのこと、特筆すべきは自らの持つ日本記録を更新した8308点という数字である。これはシーズンの世界ランキングでは2位(当時)、2年前のロンドン五輪では7位に相当する得点だった。これまで五輪での日本人最高位は12位、世界選手権でも17位と、世界との差が大きいこの種目において、入賞圏内を狙える大記録だ。同じ陸上競技で例えるならば、男子100メートルで10秒を切るよりも価値のあるものだといえる。

 快挙の兆しは、4月から現れていた。日本グランプリシリーズの日本選抜陸上和歌山大会では8143点を叩き出したのだ。1日目は5種目中100メートル、砲丸投げ、400メートルの3種目で自己ベストをマーク。「これまでやってきたトレーニングが間違いではなかったと、確信が持てました」と大きな手応えを掴んだ。「自分が思い描いていた試合はできなかった」と、2日目は得意としている投擲種目が強風の影響により、記録が伸びなかったが、それでもトータルでは自らの記録を3年ぶりに塗り替える日本新だった。日本混成競技の主要2大会を制し、立て続けの日本記録更新。覚醒のきっかけは、どこにあったのか――。

 点と点が線でつながる感覚

 実は、昨シーズンの右代はもがいていた。日本人として48年ぶりに五輪出場を果たした12年のロンドン大会後は、弱点を克服するために、走力アップに取り組んだ。専門的なコーチに指導を仰いだが、「練習をがむしゃらにやってはケガをするなど、いいサイクルに乗れていなかった」と、人生で一番走り込んだのにも関わらず、なかなか結果に表れなかった。スプリント種目のベストタイムも出なかった。日本選手権では4連覇を成し遂げたものの、得点は7808点。世界選手権モスクワ大会の代表権は掴んだが、自身3度目の世界大会では7751点の22位に終わる。「確実に体力、走るための筋力はアップしていたのに、うまくかみ合わなかった」。モヤモヤを残したままシーズンを終えることとなった。

 昨秋、藁をも掴む気持ちで、新たなトレーニング方法を模索した。右代がトレーナーとともに探し、見つけたのが大阪府にある「スポーツクラブトライ」の中川隆のトレーニング法だった。早速、右代は大阪に飛び、中川から体幹理論を学んだ。その“講義”は3日で18時間にも及んだ。右代は、ただ話を聞くだけではなく、自分の考えや疑問は率直にぶつけた。互いの意見をすり合わせ、実践も交えることでより理解を深めた。「力を入れるべきところで、入れられるようになった。逆に入れる必要がないところでは抜けるようになりました。身体の使い方を知り、“こんなにも変わるんだ”と驚きましたね」と右代。身体を無駄なく使えることで、負担も減り、効率は格段に上がった。

「これしかないと思って教わっていたので、ものすごく吸収が速かった。それまで点だったものが次々に繋がっていくんです。昨年は“何を得たんだろう”というシーズンだった。でも遡ってみれば、身体の使い方を含めいろいろなことを、線にするための土台作りの年だったんだなと。今ならそう思えますよね」。右代の目前に漂っていた霧が晴れた瞬間だった。シーズンに入ると、春先の記録会などでは5種目で自己記録を更新した。

 右代が04年に国士舘大学入学以降、指導を仰いでいるのが同大陸上競技部の岡田雅次監督だ。右代の苦悩を知る岡田は「向上心を持って、いろいろなことに取り組んでいましたが、うまくいかない部分もあった。それは記録的なものだけであって、取り組む姿勢は間違っていなかった」と証言する。

 岡田はあえて口うるさく指導はせず、右代の考えを極力尊重した。その理由をこう語る。「近道も教えるという手もありましたが、彼が納得してからの方がいいと思っていました」。それが回り道ではなく正しい道だという信念があったからだ。こうして生まれた大記録、8308点の日本新記録については「今まで積み重ねてきたものを、彼自身が点と点を線で結べた。この2年間で苦労しながらやってきた結果だと思います」と教え子を褒め称えた。

 偶然ではなく、必然としての8300点台。3年前に日本人初の8000点台(8073)をマークした時、右代は泣くほど喜んだ。人前で涙を見せることは初めてだったが、日本記録更新、目標としていた8000点台という数字に、自然と込み上げてくるものがあった。しかし、今年6月の日本記録に涙はなかった。“ここは通過点”という彼の自負があったのかもしれない。

 指導者たちが見出した大器の片鱗

 右代が陸上を始めたのは、中学校に入ってからだ。日が暮れるまで外で遊んでいた幼少期。活発な少年は、小学生になるとドッヂボール少年団に所属した。両親は陸上経験者だったが、彼には強制しなかった。にもかかわらず、右代が陸上を選択したのは理由があった。ひとつはドッヂボールを経験した中で、個人の頑張りだけでは報われない団体競技の難しさを感じたからだ。右代は個人競技への憧れを抱いていた。そして、もうひとつは小学校の体育の授業で、走り高跳びをした時にクラスで一番になったことである。それを担任の先生に褒められたことが忘れられなかった。その担任の薦めもあり、中学校では陸上部に入部した。

 入学時の身長は168センチだった右代。中2で183センチ、中3で188センチとぐんぐん伸びていった。しかし、あまりの急激な成長に身体が耐えられず悲鳴を上げた。中学時代はオスグッド病(成長痛)に悩まされ、ほとんど跳躍練習ができなかった。北海道通信陸上大会では3位に入ったが、全国大会に出場するまでには至らなかった。本人によれば「陸上は楽しかったですが、全国なんか夢のまた夢の舞台だった」という。

 それでも、まだ全国レベルにはない彼に目を付けていた指導者がいた。札幌第一高校陸上部監督の大町和敏である。右代の通う中学の陸上部の顧問とは旧知の仲。大町はその顧問から「面白い選手がいるぞ」と右代を紹介されていた。そんなこともあり、右代が中学2年時に出た大会を見ていた。「スケールのでかい中学生」。これが彼に対しての大町の第一印象だった。長身選手をあまり教えたことがなかった大町にとっても「面白そうだな」と指導意欲が湧いたという。そして翌年、大町はその思いを一層強くする。1年後の北海道中学校陸上競技大会で見た右代の姿に「前の年に見た時とは別人」と感じたという。成績は7位だったが、ひと際目立つ大柄な少年の機敏な動きに目を奪われたのだ。当然、すぐさま大町はスカウトに動いた。

 一方、右代自身も札幌第一高を第一希望としていた。全国高校総合体育大会(インターハイ)常連校で、好印象を抱いていたからだ。「大町先生が、素晴らしい指導者だということも聞いていましたし、高跳びのいい選手がいた。他の種目もすごく強いので是非行きたかった」。同校の環境であれば“自分が強くなれる”という思いがあったのだろう。大町からの勧誘は右代からすれば、願ったり叶ったりだったのである。

 素質を見出された大器・右代。高校入学後、そのスケールの大きさは、専門種目だった走り高跳びにとどまらず、やり投げや混成競技と幅広く発揮されていく。それらは彼が“王様”になるためのはじめの一歩に過ぎなかった――。

(後編につづく)

右代啓祐(うしろ・けいすけ)プロフィール>
1986年7月24日、北海道生まれ。中学1年から陸上競技を始め、主に走り高跳びを専門とする。高校3年で混成競技(八種)に転向し、高校3年時には同種目で全国高校総合体育大会(インターハイ)2位に入る。国士舘大学、大学院を経てスズキ浜松アスリートクラブ入り。10年の日本選手権十種競技で初優勝すると、同年のアジア大会では4位に入った。11年には日本選手権で8073点の日本記録を樹立。日本人で初めて8000点を超える快挙だった。同年の世界選手権大邱大会に出場すると、翌年のロンドン五輪に同種目日本人48年ぶりの出場を果たす。昨年の世界選手権モスクワ大会を経験。今年4月に日本選抜陸上和歌山大会で3年ぶりに日本記録を更新すると、6月の日本選手権では更に記録を塗り替える8308点と高得点を叩き出した。身長196センチの恵まれた体躯からのパワー系の種目を得意とする。
>>ブログ『どさんこデカスリート右代啓祐の「キング・オブ・アスリートへの道」』

(文・写真/杉浦泰介)

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