波乱の幕開けだった――。昨年、産声をあげた全日本車椅子ソフトボール選手権大会。5日、その第2回大会が札幌ドーム駐車場で開催された。昨年、初代チャンピオンに輝いたNORTH LAND WARRIORS、そして準優勝のTOKYO LEGEND FELLOWSに加え、今年は昨年チームとして出場することができなかったSilver Wings Kitakyushu、さらには陸上や車椅子バスケットボール、車椅子テニスなどのアスリートたちによる北海道前向きベンガルズも参加し、計6チーム(WARRIORSとFELLOWSはA、Bの2チーム出場)での戦いが繰り広げられた。優勝候補筆頭は、WARRIORS(Aチーム)。キャプテンを務める飛島大輔も大会前、「1年間、練習してきましたからね。優勝しますよ」と自信をのぞかせていた。ところが、だ。WARRIORSはいきなり初戦を落とし、敗者復活戦へとまわることになった。果たしてチャンピオンの座を獲得するのは――。
(写真:札幌ドームの駐車場で第2回大会が開催された)
「意味のない負けではないですよ」。初戦敗退も、WARRIORSの大西昌美監督に焦りは感じられなかった。
「やっぱり大会となると、選手は緊張するんですね。練習ではできていた連係ができていなくて、アウトにできる打球をヒットにしてしまいました。もちろん、それだけ相手が強かったということもありますが、少し動きがかたかったかな。そうしたことも、スポーツの一面でもありますからね。でも、これで終わったわけではありません。敗者復活から這い上がって、決勝でもう一度、北九州とやりたいと思っています」

 それはキャプテンの飛島も同じ気持ちだった。若手の多いチームに、飛島は「負けたからといって、悲観になることはない。まだ終わったわけではないのだから」と言って鼓舞した。
「普段からやっているプレーをすれば、十分に勝てる相手。だから次は若手には伸び伸びとやってもらいたい」

 だが、決勝への道のりは決して容易ではなかった。敗者復活戦、準々決勝、準決勝が立て続けに行われる日程となっていたのだ。果たして、スタミナ、集中力はもつのか――。しかし、それは杞憂に終わった。敗者復活戦ではFELLOWSのBチームを12−0、そして準々決勝では同じWARRIORSのBチームを23−5、準決勝は昨年の決勝の相手FELLOWSのAチームを12−4と、まったく寄せ付けることなく圧勝してみせたのである。

 線として機能した打線

 予想通りSilver Wingsとの対戦となった決勝戦は、初回に明暗が分かれた。まずは初出場初優勝を狙うSilver Wingsの攻撃。2死無走者からクリーンナップの3連打で満塁と先制のチャンスをつかむ。しかし、WARRIORSAチームで唯一女子選手でありながらエースの清野里美が、ここは踏ん張る。2ストライクから投げたのは見逃せばボールの高めのつり球。それをSilver Wingsの6番打者が打ちにいった。打球はファウルゾーンへ。この瞬間、Silver Wingsのベンチからはため息がもれた。車椅子ソフトボールの国際ルールでは2ストライク後のファウルはアウトとされる。WARRIORSが満塁のピンチを凌ぎ切ってみせたのだ。

(写真:決勝の初回、飛島の一打がチームに勢いをもたらした)
 ピンチのあとにチャンスあり――。その裏、WARRIORSの打線が火を噴いた。まずは高い出塁率を誇る1番・奥村幸平がいきなり三塁打を放ち、チャンスをつくる。すると相手に痛恨のミスが出る。1死後、3番・小林智樹の打球はボテボテの内野ゴロとなるも、相手遊撃手が一塁へ悪送球。この間に奥村が先制のホームを踏み、小林も二塁へ。さらに4番・横濱健太のタイムリー二塁打で2点目が入った。そして一気に流れを引き寄せたのは、キャプテンの一打だった。2死後、6番・源貴晴が三遊間を破り、一、三塁とすると、飛島がそれまでの鬱憤を晴らすかのような打球を右中間へ飛ばした。三塁ランナーの横濱、続いて一塁ランナーの源が生還し、2点を追加。そしてさらに、飛島もダイヤモンドを一周し、ホームへ。キャプテンのランニングホームランにWARRIORSベンチはわき上がった。結局、WARRIORSはこの回一挙に5点を奪い、早くも試合の主導権を握った。

 しかし、車椅子ソフトボールでの5点はセーフティリードではない。WARRIORS は2回に2点を挙げたものの、Silver Wingsも2回に1点、3回に3点、4回に1点を挙げ、じりじりと追い上げる。4回表を終えた時点で、5−7と2点差に迫られていた。迎えた4回裏、WARRIORSは打順よく1番・奥村からの攻撃だった。それだけにWARRIORSはできるだけリードを広げたいと考えていただろう。一方、Silver Wingsからすれば、最少失点で抑え、終盤での逆転を狙っていたに違いない。両者にとって、非常に重要なイニングだった。

 軍配が上がったのは、WARRIORS打線だった。奥村の二塁打を皮切りに、3連打で無死満塁とすると、4番・横濱が走者一掃のタイムリー二塁打を放ち、3点を追加。さらに5番・斎藤雄大にもタイムリーが出ると、源はボテボテのゴロも、鍛え上げたスピードで内野安打として、無死一、三塁に。そして、打席には初回に3ランを放った飛島。警戒して後ろへと下がり気味にシフトをとるSilver Wingsの守備をあざ笑うかのように、ここで飛島はスクイズを決めてみせた。この回、5点を奪ったWARRIORSが最後まで逃げ切り、13−6で勝利。初戦敗退という崖っぷちから、見事に王座へと這い上がった。

 すべては期待の表れ

 飛島は決勝の勝因をこう語る。
「初戦は打線が線になっていなかったんです。個々が一発をねらって、つなぎの気持ちが薄くなっていた。でも、決勝では打線がしっかりと線になっていました。それが大きかったと思います」
 また、大西監督は決勝前、「今度は作戦で勝ちます」と語っていた。果たしてその作戦とは――。
「得点を取るべき時に、確実に取るということです」
 4回裏、初回にホームランを放っていた飛島に対し、スクイズを命じたことが、それを物語っていた。もちろん、それは飛島も十分に理解していた。
「ここでスクイズかな、と思っていたところに、大西先生からサインが出た。さすがだな、と思いました」
 飛島にとって、大西監督は北海高校野球部時代からの恩師だ。考えは、言葉にしなくてもわかっている。
(写真:飛島とともにゼロから日本の車椅子ソフトボールをつくり上げてきた大西監督)

 日本の車椅子ソフトボールの歴史は、大西監督と飛島のキャッチボールから始まった。それゆえに、大西監督の飛島への期待は大きい。それは、こんなエピソードにも表れている。これまで大西監督は他の選手とはしても、飛島とだけは決して握手をすることはなかった。それが昨年、優勝した際に初めて大西監督から握手を求めてきたという。言葉はなかったが、飛島には十分だった。苦節5年、追い続けてきた夢を現実のものとした喜びを、2人は分かち合ったのだ。しかし、今年は優勝後の握手はなかったという。大西監督の飛島への期待が、より高いところに設定されているのだろう。

「車椅子ソフトボール界を引っ張っていってほしい」。そんな思いを込めて、大西監督が自らの名前「ニシ」にちなんで指定した背番号「24」を背負う飛島。日本に車椅子ソフトボールを誕生させたのは、彼の存在である。それは10年後も20年後も変わらない事実であり、語り継がれていくに違いない。だからこそ、否が応でも今後、さらなる普及・発展のために、飛島は不可欠な人物だ。それを大西監督は飛島に伝えようとしているのではないか。容易には握手しないのも、名前にちなんで指定した背番号にも、恩師からの熱いメッセージがこめられている――。

 広がり始めた支援の輪

 さて、今大会で増加したのは、チームだけではない。スポンサーも昨年の19から32に増えた。その中には、プロ野球球団もある。昨年から支援している埼玉西武ライオンズと、今年「ファイターズ基金」を提供した北海道日本ハムファイターズだ。また、野球とともにソフトボールをオリンピック競技へと復活させるべく、宇津木妙子元日本代表監督を中心に普及活動を行なっているNPO法人ソフトボール・ドリームも協賛スポンサーに加わった。会場には代表として元日本代表の高山樹里が訪れ、始球式を行なった。

(写真:選手のプレーを真剣に見つめる高山<左奥>)
 初めて車椅子ソフトボールを目にした高山は、こんな感想を述べている。
「車椅子競技にはバスケットボールやテニスがあるのだから、ソフトボールもできるんだろうなとは思いました。でも正直、どういうふうにしてやっているのかはあまり想像ができませんでした。そしたら、連携プレーはするわ、守備のフォーメーションまで考えているわで、驚きました。ソフトボールをやってきた人間だからこそ、車椅子を操作しながら投げて、捕って、打って、走ってというのがどれだけ難しいことかは見ていてわかるんです。すごい、という言葉しか出てきません。そして何より嬉しいのは、障がいを負ってもソフトボールへの道が開かれているということですよね」
 今後は、ともに2020年東京オリンピック・パラリンピックでの採用を目指すつもりだ。

 こうした支援の広がりについて、山田憲治事務局長はこう語る。
「まだまだ競技人口もチームも少ない。認知、普及においては、課題は山積みです。でも、環境の変化におけるスピードは速いと感じています。昨年、日本車椅子ソフトボール協会を発足させ、第1回全日本選手権を開催することができたわけですが、その1年後の今年にはスポンサーが2倍近くにも増え、会場も公園の駐車場から、日本ハムや札幌市の協力のもと、札幌ドームという立派な施設の駐車場を借りることができた。やはり野球文化が根強い日本では、大きな可能性を秘めた競技だということを改めて感じています」

 認知、普及、育成、強化、環境整備……すべてが未完成である。しかし、だからこそ、車椅子ソフトボールには将来性が感じられるのだ。一歩、一歩が歴史となって刻まれていく。その姿を今後も追いかけていきたい。

(文・写真/斎藤寿子)